本屋さんで気になるトピックの本をディグる朝 haru.×村上由鶴【前編】
月曜、朝のさかだち
『月曜、朝のさかだち』シーズン2、第二回目のゲストは秋田公立美術大学助教であり、写真研究をされている村上由鶴さんをお迎えしています。村上さんとharu.さんはこの日、学芸大学駅高架下に2024年の8月にオープンした「COUNTER BOOKS」さんで気になる本を選び、店内のカフェバーでお茶をするという朝活を行いました。
店内ではフェミニズムに関する書籍を選書した棚もあり、そこには村上さんが執筆した『アートとフェミニズムはだれのもの?』*①も並んでいたのでまずは記念撮影。その後村上さんは「ちょっとセクシーな本が読みたい」と話し、『性食考』*②を購入。haru.さんは村上さんからおすすめされた『ゼロからトースターを作ってみた結果』*③と、気になっていたという『歳をとるのはこわいこと?60歳、今までとは違うメモリのものさしを持つ』*④、『ベル・ジャー』*⑤、『パンクの系譜学』*⑥の4冊を購入しました。「COUNTER BOOKS」ではカフェバーも併設されているので、気になる本を読みながら、コーヒーやアルコールも楽しめます。朝活だけでなく、仕事終わりにフラッと寄ってみるのもおすすめです。
「COUNTER BOOKS」での朝活を終えた二人は、写真を撮るということが多くの人にとって身近なものになった現代で、写真作品とはどういったものなのか、AIによる画像生成が普及したことによる写真業界の変化や課題などについてお話しいただきました。
本編へ進む前に、まずは視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
村上由鶴 さんに聞きたいコト
視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
Q.スマホカメラでもいい作品は撮れますか?
A.撮れます!というよりは、作れます!という方が正しいかもしれません。よい機材にはもちろん良さがありますが、機械の描写力に頼るのではなく、いつでも・どこでも・そして誰もが持っているスマホのカメラでも、(むしろだからこそ)作者のアイデアや発想力次第で、よいカメラで撮った写真1枚を超えられるような、奥深さのある作品を作ることもできるはずです。
Q.美学は時代によって変わり作品の評価も変化しますが、時代を超えて胸を打つもの凄さはなんですか?
A.時代を超えて胸を打つものにも、いくつかのパターンがあると思いますが、個人的に「凄み」を感じるのは、作品自体はシンプルであったり素朴であったりするのにものすごく大きなテーマや思考につなげてくれるような作品です。例えば、コンセプチュアル・アートのアーティストであるオノ・ヨーコの作品「This line is a part of very large circle(この線は、とても大きな円の一部)」のように、ただ単に線が一本引いてあるだけの絵画とテキストによって、作品へ向いていた意識をより大きなものへと広げてくれるような感覚をもたらす作品は、時代を超えて胸を打つもののひとつではないでしょうか。
Q.これからの時代、撮る人、撮られる人に不可欠なマインドとはそれぞれなんだと思いますか?
A.テクノロジーに没入しないことではないかなと思います。特に、カメラという道具を使っている時には、撮る側も撮られる側も、普段の生活ではしないような行動をしてしまうことがあります。いわば日常の生活とは切り離された「一瞬の非日常」のようなもの。突発的な反応であっても、それが時々、取り返しのつかない暴力のように日常を破壊することもあります。写真に、守るべき日常を侵食されないように、コントロールを手放さないことが大切だと思います(抽象的な言い方ですが)。
写真作品たらしめるものとは
haru._本日のゲストは秋田公立美術大学助教の村上由鶴さんです。由鶴さんは写真研究を専門にされていらっしゃるんですよね。なので今回は私たち現代人にとって一番身近なメディアである写真について、いろんな角度でお話しをしていければと思っています。今はスマートフォンで誰もが気軽に写真を撮れるようになっている世の中ですよね。でも写真作品ってあるじゃないですか。その作品たらしめるものっていうのは何なんですか?
村上由鶴(以下:村上)_例えば、カフェに行っておしゃれなコーヒーと自分の持ってる本をテーブルの上に置いたりして写真を撮るときに、ちょっと美しい状態のものを撮るっていう意識で撮ってると思うんです。でも、それって作品じゃないと思うんです。写真やカメラをただの道具として使っているので。そういった写真を撮るときって、写真についての意識ってほぼないじゃないですか。でも写真家の人たちは、写真作品を作るときに、「写真とは何か?」みたいな考えが意識のなかに1枚フィルターが入ると思っていて。「私だったら写真をこう使う」とか「写真ってこういうものだよね」とか、そういう意識を持って写真を撮るときに、写真作品ができるものだと思っています。ご飯の写真を撮るときって、ご飯やご飯の写りのことばかり意識してると思うんです。そこで「写真ってこういうものだから、こういうふうに撮ろう」っていう意識があると、写真作品になるんじゃないかって私は考えています。
haru._例えば、チェキでご飯を撮るっていうコンセプトがあって、SNSはチェキで撮った写真だけが並んでいるギャラリーになっていて、本人が「これは写真作品です」って言っていたとしたら、由鶴さんはそれを写真作品だとみなしますか?
村上_作品だってみなすことはできます。チェキってきっとフォーマットだよね。そのフォーマットで一つのルールを作って同じような見せ方をするっていうことを、写真を使うときに自分に課しているじゃないですか。チェキで写真を撮ることって、ちょっと手間だけど、それでもやっているっていうのは、作品にするためのプロセスではあると思う。評価はまた別って感じだけど(笑)。
haru._SNSに写真をあげることって、作品になりづらい要素でもある気がしていて。アマリア・ウルマン*⑦っていうニューヨークを拠点に活動されているアーティストが、4ヶ月に渡っていわゆるステレオタイプと言われるような女性になりきった写真をSNSにあげ続けていたんです。真面目なアーティストの印象があったので、見ている人を混乱させたり、「彼女も普通の女の子に成り下がってしまったんだ」っていう反響があったんですよね。そのなかでも彼女は黙々と続けて、結局最後にこれは作品でしたっていうパフォーマンスをした作品シリーズ「Excellences & Perfections(2014年)」がありました。「その写真をあげている間は、それは作品ではなかったのかな?」とか、「SNSにアップする写真がいつ作品になるのか?」っていうことを考えていました。
村上_私もアマリア・ウルマンは好きです。「Excellences & Perfections」の最初は結構ガーリーな感じなんだけど、途中で彼氏と別れたっぽい投稿があって、そこから豊胸手術や整形をしたり、髪の毛を金髪に染めたりする流れがあって。確かにあれはどこから作品になったのかっていうのはすごく難しいんですけど、あの作品の場合は写真作品でもあるんだけど、パフォーマンスアートだったみたいなところが大きいのかなと思っています。それでいうと、一連の全てが作品。
haru._むしろ一枚にはそんなに大きな意味はないっていうことですか?
村上_そうそう。その一枚が写真作品として美しいかっていう評価ではなくて。でもそれなりに見るべき面白さはそれぞれの写真にもある。それよりも、このアクションをしていた期間、合成してる部分もあるとは思うけど、髪を染めたりとか、ある程度時間をかけていて、その行為自体が作品だったって思うと、写真は作品のためのパーツだったのかなって思います。
haru._虚構のイメージを作るときに、写真って一番わかりやすいというか、共犯者っていう感じがします。
村上_それを2014年っていうかなり早い段階で、現実と虚構みたいなものが混ぜこぜになって、よくわかんない状態にできるっていうことがすごくて。アマリア・ウルマンはアーティストとしてそれをやっているけど、写真を使えば日常生活はそういう女の子であると見せることができる。そういう普通の女の子に見せるっていう狙いもあったと思うし、写真を使えばそう思い込ませることができるということを証明した作品でもあるんです。実際にコメントで「イケてるアーティストだと思ってたのに、ただの女の子だったじゃん」とか「どうしちゃったの!?」みたいな反響が生まれたことによって、写真はその人間の生活の全部を包み込んで、見ている人にあたかもこれが現実であるかのように見せることができるということを示したと考えると、写真作品でもあるんですよね。写真に対する批評性がすごく働いている作品です。
haru._すごい…! もう同じ手法で彼女が作品を作ることはできないじゃないですか。
村上_誰ももう無理(笑)。あとこの作品を作っていた時期も絶妙だったと思う。
haru._10年前のインスタグラムってまだ機能も少なくて、ハッシュタグが結構生きてましたよね。
村上_みんながそれを丁寧に使ってましたね。
haru._私もキーワードとなるハッシュタグを辿って気が合いそうな世界中の女の子たちを探してました。
村上_当時はそれができたけど、今はみんな日常の生活ではなくて、見せたい自分の姿をインスタ上で演出するために写真を撮ってあげるっていうのを普通にやってるから、それをわざわざ作品化しても、「別に日常のことだよね」みたいな感じになっちゃう。だからすごく先見性がある作品だなって思います。
haru._アマリアは大きいバスの事故で慢性的な足の痛みにすごく悩まされているそうなんですけど、ファッションビジュアルとかに出るときにすごく走ったりしていて。
村上_映画でも走ってたよ。
haru._そうですよね。すごく身体を動かしていて、でもその撮影のあと二日間寝込んでるみたいなのも見ました。写真の中ではすごく躍動感があって、「メディアの中では嘘の自分を表現することが可能である」って本人も言っていたんです。虚構の自分が作れて、肉体の限界を超えられるって言っていて、なるほどってすごく思ったんですよね。
村上_でもそれって今私たちも常に経験してることに近いかもしれない。加工とか使えば自分の身体なんだけど、その制約からは解き放たれるみたいなことが可能だし。そこがいまだにみんなが写真っていうものに惹かれる理由だと思う。でも例えば、ちょっと胸を大きくするブラジャーとかがあると思うんだけど、そういうのをつける感覚と写真を使うことが割と近いなと思ったりする。
haru._嘘と本当の境界もすごく曖昧というか。胸を盛るブラも自分の胸を持ってるから、別になんかそれって本当だし!みたいな(笑)。
村上_そうそう(笑)。フォトショップを使ってドーンと大きく加工することもできるけど、みんな適切な範囲の加工で楽しんでると思う。自分の身体を超えるんだけど、自分の身体の延長線上を写真で実現するっていうことを結構みんなナチュラルに楽しんでるんじゃないかな。
haru._インスタでも、みんな普段の自分よりもちょっとだけ何かをプラスアルファしたりして、インスタ上の自分を作ってるんだろうなって、自分の投稿を見て思います。私は普段メガネをかけてるんですけど、インスタに載せるときはあえていつも同じメガネをかけて、同じ場所から撮ったりするんです。そうすると、あたかもそのスタイルでいつもそこにいるような感じに演出できるんだけど、私が本当にかけてるメガネってもっと瓶底メガネで、目がヒラメみたいになるメガネなんです(笑)。そっちが本当に必要なメガネなんですけど、でも今はこういうムードで演劇をしているなって感じます。
村上_写真っていくらでも役を作ったり、演出を作ったりすることができるんですよね。しかもそれが日常を舞台にしているっていう。みんなが「この人ってこういう人なんだな」って思ってくれるから、演劇なんだけど、舞台が現実の地続きのままにあるっていう感じがする。
生成AIでは感じられない感動がある
haru._由鶴さんは大学で教鞭も取られているので、ChatGPT*⑧の登場でレポートをチェックするのが大変だとか、そういう問題にもたぶん直面されてるのかなって思うんですけど、そういうAIの台頭で写真業界に何か変化などは起こっているんですか?
村上_2022年、2023年あたりで、AIによる画像生成がリアルに使えるようになったっていう意味ではすごく変動のあった年だったんじゃないかなって思います。「Sony World Photography Award」という毎年開催されている世界的な写真のコンペティションがあるんですけど、去年そこで最優秀賞を受賞した作品がAI生成だったっていうのがあったんです。受賞したのはボリス・エルダグセン*⑨という写真家で、結局自分でネタバラシをして、その人は最優秀賞を辞退するんです。もともとその人は、画像生成AIで作られたものは写真じゃないと主張する立場の写真家なんですけど、あえて画像生成AIで写真っぽいものを作って写真のコンペに出したんです。そして受賞時に全てを話し辞退することによって、写真業界でちゃんと写真と画像生成AIの違いについて議論した方がいいということを伝えたかったそうです。つまりはっきり言えば、まだ議論がうまく進められていないっていうことだと思うんですよね。さっき話していた、作品たらしめるものという話でいうと、作品化に関わる部分での画像生成AIと写真の違いはまだ様子見になってるっていうのが実情かなと思います。
haru._この間すごく驚いたことがあったんです。私が通っているジムのトレーナーさんは普段モデルの活動もされていて、とある広告に出演したときに「いろんな役をやってほしい」と言われたそうなんです。「サラリーマンや若い子、スケーターっぽい役や年配の男性の役もやってほしい」って言われて、引き受けたそうなんです。「でもAIで顔は変えさせていただきます」って(笑)。
村上_怖い(笑)。
haru._そのときの写真を見せてもらったんですけど、パッと見全部その人みたいなんですよ。どの部分をどう変更してるのかわからないんですけど、面影が残っていて、でも本人ではない感じなんです。
村上_気持ち悪い……。
haru._ちょっと気持ち悪いんですよ。でも、本人として出演してるわけではないから、広告として出てるけどギャランティーが低いらしくて。今は過渡期で、「そういうのも導入しています」くらいだからそこまで問題になってないけど、モデル事務所とかもそういうことの対策をしていくようになるのかなって思ったら、なんだか私にとっては怖い話だったんですよ。
村上_モデルもプロフェッショナルな仕事だと思うんですけど、消費されてる感じが高まってますよね。それをAIが加速させてるっていうのは、現象としては興味深いけど、怖いなっていうのは思う。
haru._まだ利用する側のリテラシーが話されていないですよね。
村上_ルール決めがまだなされていなくて、どこにどういう倫理を働かせていくべきなのかっていうところが、たぶんこれから問題になっていく部分。写真業界はまだうまくルール設定ができていないし、商業的な分野と作品での使用っていうので異なってくるのかなっていうのは思いますね。
haru._じゃあ作品としてもAIを活用して制作する人はたぶん増えていきますよね。
村上_もう出てきていますね。写真作品って今は本当に多様な作り方があって。ただ撮って出すだけじゃなくて、その間の編集は、プリントしたものをもう一回取り込んでとか、いろんなやり方をする人がいる。それと同じように、生成AIを取り入れてみるっていうやり方をする人もいて。それがコンセプトとして重要な一部になってるっていうパターンの作品もあるとは思うんですけど、写真と生成AIの双方に対して批評性がちゃんと伴ったいい作品に私はまだ出会えていないです。
haru._これからなんですかね。
村上_だからさっきのSonyのコンペティションで、ボリス・エルダグセンは写真家でありながら、生成AIを使って作品を作り、パフォーマンスアートとして応募して受賞を辞退するんです。その行為自体の方がおもしろいかもしれないってちょっと思ってるところはあります。
haru._由鶴さん的に、AIで生成された画像が、ファインダー越しに撮影された瞬間を超えることってあると思いますか?
村上_そうだな……。ドナルド・トランプが銃撃されたけど、そのときに「これがピューリッツァー賞*⑩間違いなし」って言われた写真があって。本当に撃たれた瞬間で、耳から血を流しながら拳を突き上げるドナルド・トランプの後ろで星条旗がはためいてる写真で。あの写真があれだけすごい写真だと受け入れられているのって、あれが絶対に生成AIによって作られた写真ではなくて、あの瞬間にカメラマンがシャッターを押したことによって、その瞬間をみんなが同じように体感できるからだと思うんです。そこに立ち会っているんだって思えることや、すごい技術を持っているんだとか。
haru._確かに、技術面も話題になってますもんね。
村上_そうそう!構図も瞬時に判断してると思うし、そのプロフェッショナル能力みたいなところに対する評価があるんですよね。それと、「その時、その場所で、その事が起こった」みたいな、写真が与える感動っていうのがまだ結構大きいんだなっていうのを、この件で再確認しました。ただドナルド・トランプが撃たれた、その後ろに星条旗がはためいているっていう生成AIが作った画像を見たら、なんだか陰謀論っぽいなって思うと思うんです。やっぱり生成AIでは得られない感動があって、あの時に報道写真家がシャッターを押したということによって心が動いちゃうことってあるなと。
haru._しかもニュースで「トランプが撃たれた」ってまずテキストで飛び込んでくるじゃないですか。そのすぐにあのイメージが出てくる強さみたいなのもすごいなって思いました。
村上_全世界にあの写真が一斉に拡散されて、私たちもある意味その出来事に立ち会える感覚があるんですよね。その写真が、どこから生まれたかよくわからない生成画像ではなく、あの瞬間、あの場所で、生身の人間から生まれたっていうことにまだまだ感動しちゃう。人間に対する信頼みたいなものの強さがあるなって感じた出来事でした。報道写真という分野においては、人間が撮る写真の強さがまだまだ衰えていないなって思います。
haru._AI画像の「時間がない感じ」がやっぱり気持ち悪いんですよね。
村上_あのヌメッとした感じね。だからこそ時代を感じられたり、そこに人がいたみたいな感じに思わせるプロンプトの入力をみんな結構頑張ってるんじゃないかな。フィルムの質感や、人を感動させる質感みたいな。だからもしかしたらこれからはイタチごっこ的な感じになっていくのかな。
haru._今後どうなっていくのかすごく気になります。
対談記事は後編に続きます。後編では、村上さんの書籍『アートとフェミニズムはだれのもの?』から、女性が眼差される存在から脱却しようと試みた女性アーティストのお話や、最近のファッション写真の流行や変遷についてお話しいただきました。2人の対談はPodcastでも配信中ですので、あわせて楽しんでみてください。
それでは今週も、行ってらっしゃい。
Profile
村上由鶴
1991 年生まれ。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。単著に『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社)、共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社)。 POPEYE「そもそも写真教室」、POPEYE WEB「おとといまでのわたしのための写真論」、晶文社スクラップブック「わかった気になる-反差別の手立てとしてのアート鑑賞」など、写真やアート、ファッションイメージに関する研究・執筆を行う。