本屋さんで気になるトピックの本をディグる朝 haru.×村上由鶴【後編】
月曜、朝のさかだち
『月曜、朝のさかだち』シーズン2、第二回目のゲストには秋田公立美術大学助教であり、写真研究をされている村上由鶴さんをお迎えしています。記事の前編では学芸大学駅高架下にある「COUNTER BOOKS」での朝活の様子から、写真を撮るということが多くの人にとって身近なものになった現代で、写真作品とはどういったものなのか、AIによる画像生成が普及したことによる写真業界の変化や課題などについてお話しいただきました。まだ読んでいない方はぜひチェックしてみてくださいね!
後編では、村上さんの書籍『アートとフェミニズムはだれのもの?』*①から、女性が眼差される存在から脱却しようと試みた女性アーティストのお話や、最近のファッション写真の流行や変遷についてお話しいただきました。
本編へ進む前に、まずは視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
村上由鶴 さんに聞きたいコト
Q.好きな写真集を3つ教えて下さい
A.ダイアン・アーバス『An Apature Monograph』、ソフィ・カル『本当の話』、アネット・メサジェ『Les Tortures Volontiers(自発的拷問)』。
Q.︎写真作品を見るときに、必ず意識している、見るポイントなどありますか?
A.作品によって違うので必ず同じように見ているわけではありませんが、最近だと、その写真が、わたしたちを招き入れるような魅力的な「扉」か?を見ています。 参考:https://popeyemagazine.jp/post-231854/
Q.今、注目している写真家を教えてください。どんなところに注目をしているのかも合わせて知りたいです。
A.個人的には写真家に新しい色調や質感や被写体を発明してほしい!と思っているので、その点で、Elizaveta Porodinaと、David Brandon Geetingは、見ていて楽しいです。
美術界に根強く残る女性の過小評価
haru._前編では写真のお話しをしてきたんですけど、後編では女性が眼差される対象から、主体性を持っている存在として光が当たるきっかけとなった作品についてお話ししていきたいです。美術やアートの世界でも、長らく女性は眼差される対象だったと思うんです。男性の作る作品のなかで、よく裸でいることが多いですよね。
村上由鶴(以下:村上)_描かれる対象、かつ見られる対象というか。美術館に行くと普通に見てるけど、実はヌードだったりする。よくよく考えたら、こんなに裸のものがいっぱいある状況って変だなって思うことってあると思うんです。ヌードになっているのがたいていは女性であることは、ジェンダーの視点から見て、美術の歴史のなかでもずっと指摘されてきたことなんです。そこにはすごくいろんな背景があるんですけど、女性が成功しにくいルールのようなものって、今の社会でもそこまで大きくは変わっていなくて、ちょっとしょんぼりすることもあります。そういう制度によって異性愛の男性の芸術家、アーティストの意識が中心に美術の世界を作り上げてきた結果、女性の裸体がテーマになってきやすい。男性が描き、作る人。つまり男性が見る人であって、女性は作られる、見られる人っていう、アート業界のなかでジェンダーに基づいた役割分担がなされてきてしまったという流れがあります。
haru._それに抵抗しようとして作品を作ったり、写真を撮影した女性のアーティストも本当にたくさんいらっしゃるじゃないですか。たくさんの人がいろんな手法で試されているとは思うんですけど、由鶴さんの視点で、そこに光が当たるきっかけとなった作品やアーティストを紹介していただきたいなと思いました。
村上_本当にたくさんいるので、『アートとフェミニズムは誰のもの?』という本にいっぱいそういうアーティストを紹介しているので、興味がある人はよかったらそっちも見てもらいたいんですけど。
haru._由鶴さんが昨年、光文社新書から出版された本ですね。
村上_そこでも書いたんですけど、日本での話をさせてもらいますね。日本だと1980年代の終わりから1990年代のタイミングで、ヘアヌードブームっていうのが週刊誌や雑誌で起こったんです。それは、これまで隠されてきた女性の身体のある部分も出しちゃうブームがあったんです。そこでアンダーヘアーが見えるだの見えないだのですごく下世話な盛り上がりが見られたことがあって。そういう現象を見ていて、「私たちのアンダーヘアーが見えるか見えないかっていうことで、こんなにわあわあ言って、なんなの?」って女性たちは思うんですね。そのなかで長島有里枝*②さんという写真家の方が、常に男性から女性の身体が物みたいに扱われることや、ヘアヌード写真の扱われ方に違和感を持ち、そういう状況を批判するためにセルフポートレート、つまり自分で自分を撮るっていう作品を作り始めました。「Self-Portraits」というシリーズのなかで長島さんもヌードになって写真を撮っているんですけど、そのシリーズでは家族とも一緒に写真を撮っているんです。家族って基本的にはセクシーな関係ではないはずだから、家族と一緒にヌードになったらそういうふうに見られることを避けることができるんじゃないかという狙いでポートレートを撮っていたんです。その試みって今見てもすごく革命的で。
まず、撮る人は男性、撮られる人は女性、つまり見る人は男性、見られる人は女性という構図自体を、自分のヌードを自分自身で撮るということで崩しているんですよね。そして家族とヌードを撮ることで、セクシーなものとして見られることを防ぐっていう戦略的な手段をとっているんです。でも、当時は「不思議ちゃん」とか「衝動的に脱いでいる人」、「奔放な部分を見せたい女」みたいに解釈されてしまったりもしたそうです。攻撃としてはすごくインパクトがあったんだけど、受け止める側が知識がなさすぎて、そういった視点で作品を見ることができなくて、十分に評価されなかったところがあったんじゃないかなって思います。
haru._当時その写真シリーズが発表されてからと今とでは評価は変わってきているんですか?
村上_当時ももちろん高く評価した人はいたと思うんですけど、そうじゃない評価もそれなりにあって、それが「女の子写真」っていう言い方として残ってるんです。それは「女の子たちがカメラを持って、自分たちの奔放さみたいなものを記録し始めたよね」という感じで、男性の写真家とは違うジャンルみたいに距離をとる評価のされ方だったんですよね。
haru._HIROMIX*③さんもセルフポートレートを撮って、それがすごく有名になったりしたと思うんですけど、昔から男性の作家が描いた自画像ってその人の代表作として評価がすごく高かったりすると思うんです。なのに女性の作家がそれをやったときに、「自分にしか興味がないナルシスト」みたいな扱いになってるなっていうのはすごく思っていました。
村上_それって女性に対する偏見が含まれてると思っていて。男性がやることは芸術だったら全て崇高で立派なものみたいに思われるところがあるけど、女性がやると鏡を見てることの延長みたいな感じに捉えられてしまったりする。そもそも女性だって戦略的にやってるっていうことを想像してもらえず、衝動的にやる人たちという捉えられ方をしてしまうところがありますよね。もちろん当時もいろんな賞を受賞していたりするので、評価はされてはいたんですけど、近年のフェミニズムに対する理解がすごく進んできたことによって、今の方がもしかしたら重要性や先進性みたいなものが高く評価されているってことはあるかもしれないですね。
haru._学生時代にマガジンを作っていたときに、男性の教授たちの講評が、いい評価でも悪い評価でも「素人っぽいね」とか「手作り感が目立つ」っていう、手法にばかり意識を向けられて、内容についての言及はないんだなって思ってました。
村上_もしそれが成績優秀な男子学生だったら、その素人っぽさみたいなものを美術の中に組み込もうとする戦略として捉えてもらえる可能性があると思うんですよ。そう捉えてもらえないことはたぶん女性の方があるんじゃないかな。特に、自分でやるっていうことがすごく下に見られてしまう。女性で手芸的な方法を使った作品は結構そういうふうに見られがちなんです。手芸って、生活のなかのもので、靴下に穴が空いたら塞ぐことと同等と捉えられてしまって、手芸を使う女性のアート作品が美術のなかに残る重要なものだとは捉えられていなかったりする。女性のこと、女性の領域全般みたいなものに対して評価が低かったり、低く見られがちになってしまうというのは、美術の中で癖としてずっと培われてきた部分があるということですよね。
haru._今回は長島有里枝さんの作品についてのみの紹介でしたが、由鶴さんの本の中では本当にいろんな作家の作品や活動が紹介されているので、気になった方はそちらも是非チェックしてみてください。
最近のファッション写真のトレンドは スーパーモデルブームの回帰?
haru._私は4月に下着ブランドをローンチして、そこから下着ブランドの広告のあり方や、流れ、そして今どういうファッションストーリーがみんなにみられているのかっていうのをチェックするのが好きになったんです。由鶴さんは最近気になっているものや、よく見かけるなと思うものってありますか?
村上_Y2K*④っていう言葉がしばらく言われていて、今はそこが細分化してきてる感じがあるのかなって思っていて。最近よく見るなと思うのが、スーパーモデルブームが90年代の終わりから00年代の初めぐらいまであったと思うんですけど、スーパーモデルブームのときの写真みたいなテイストが多いなと思っています。撮られている人はスーパーモデルじゃないんだけど、それっぽい撮られ方をしてる写真の質感が多いなと。それは一個のトレンドっぽいなっていうふうには思ってるんですけど、「目立って今これ!」みたいなのは一旦落ち着いたかなって感じています。
haru._由鶴さんの言うスーパーモデルっぽい写真っていうのは、例えばどういう写真のことですか?
村上_言葉にするの難しいんですけど、基本背景はグレーなの。特別なことは何もないんだけど、かなり保守的なファッション写真の文脈に寄せていってるのをあえてやってる感じがする。あるあるのポージングをしてる。
haru._私たちがモデルポーズしてって言われたときに、素人がふざけてするような、腰に手を当てて、腰を内側に入れるみたいな(笑)。確かにああいうの見ますよね。
村上_肌の感じもつるんとしてて、フィルムとかデジタルとかを特に感じさせない、すごくニュートラルな写真っていうのが最近はすごく多いですね。いろんな流行があって、そのニュートラルっていう流行に落ち着いちゃった感じなのかなって気がしてます。
haru._それでいうと、ラグジュアリーブランドがその手法をガチセレブでやるっていうのも最近よく見るなと思っていて。あえて有名人をそういうシンプルな構図や背景で撮るっていうのをよく見ます。PRADAの2024年FWキャンペーンとかも、アンバサダーたちを無機質な部屋に集めて向き合って座らせる広告が出ていて。なんのリアリティもないのに、これがうちらのリアルですみたいな感じで撮っていて(笑)。インスタの投稿のキャプションにも「Staged reality(演出されたリアル)」って書かれたりしていて、演劇的なんだけどリアルを表現しているんですよね。
村上_なるほど。Stagedって言葉は写真の世界ではStaged Photoっていう言葉があるんです。演出写真っていう意味なんだけど、その系譜のなかでもちょっと前まではもっとその状況を作り込む感じがあったんですよ。物語が生まれるぐらいの感じで作り込むっていう流れがあったけど、今は無機質な空間に人だけがいて、前後で組み合わせたりして配置するみたいになってきていますよね。スーパーモデルブームっていうのが、そういうものだったと思うんです。誰を撮るかっていうところにすごくフォーカスされていたから、誰が着るのか、誰が撮るのかっていうのが重要になっている。だから当時のスーパーモデルたちのお給料はすごく高かったんですよね。「この人を撮ってるから、それ以外はあんまり頑張らなくていいよね」みたいな写真の流れがあるのかなって感じで見えています。
haru._そのコレクションの写真にいろんなキャプションが書いてあるんですけど、そのうちの一つに「Be a fly on the wall(壁のハエになろう)」って書いてあるんですよ(笑)。ハンター・シェイファー*⑤が無機質な部屋にいて、誰かに電話をかけていて、それを私たちはハエ視点で見てるんです。盗み見するみたいな感じでも書いてあって、そのキャプションもちょっとおもしろいなって思いました。
村上_確かにおもしろいかも。「私ハエにされてんの!?」みたいに思うね(笑)。
haru._ラグジュアリーブランドではそういう流行があるけど、記事の前編で話していた、AIの台頭で写真の世界が変わるのかっていう話で、モデルの方がAIで顔を変えられて、いろんな職業の人に作り変えられたって話をしたと思うんですけど、そことのギャップが大きすぎてショックを受けちゃうんですよね。
村上_本当に辛いよ。ラグジュアリーブランドでは、その人間のキャラクターにフォーカスして、「こういうふうになれる」っていうのを通じて服の広告をするわけだけど……。
haru._でも私はハエですから(笑)。
村上_ひどい話だよね。悪い意味で、人間力みたいなもので値付けされてる感じが最近のファッション写真のなかにはあるかなって思います。例えば、有名なK-POPアイドルとか、世界のセレブリティたちは、シンプルな撮られ方をする。
haru._ブランドの価値も、クリエイティブっていうよりも、誰がモデルをやるのかとか、ファッションショーのフロントロウに呼べるかみたいなところになってる。いろんな媒体のファッションレポートを見ていても、どれもセレブが小さいマイクを持って、ブランドについては何も言ってないみたいなものばかりで(笑)。結局ブランドのことは何も分からなかったみたいなことが多いです。
村上_ショーの映像よりも、小さいマイクを持ってる人の映像の方をよく見るなってことはよくある(笑)。
haru._ブランド側も自分たちのクリエイティブをどう打ち出すかっていうときに、今はソーシャルメディアをどう使うのかっていうことにすごく悩んでたりするのかなって思います。
村上_でもいくつかのブランドはおもしろいなと思っていて。最近だとDIESELはいつも凝っているし、ECサイトだけどSSENSEもフレッシュなフォトグラファーを起用してファッションストーリーの写真とかを載せています。あとファッション雑誌でも新しいことにチャレンジしていたりする媒体もあって、そういうのを見ていると、流れみたいなものが見えてくるんです。全部が全部ではないけど、傾向としては確かにアンバサダー時代だなっていうのは思いますね。
haru._スペインのブランドのCAMPERLABOはすごく実験的でいつもおもしろいなと思って見ています。でもさっき由鶴さんが言っていた、当時のスーパーモデルブームに本当にスーパーモデルだった人たちが一堂に会するみたいなのも結構見ます。
村上_今ちょうど20年ぐらい経ってるからだと思うんです。スーパーモデルブーム時代の美意識みたいなものをもう一回やるってなったときに、「じゃあ呼んじゃえば?本物」みたいな感じになって、一堂に会するショーや写真が出てきているのかなと。一つそういう流れはこの1、2年で来てるのかな。
haru._そうですよね。日本のスターだった人たちが、4、5人集まって特集ページを飾ってるのを見て、おお!と思ったのが最近でした。
村上_そのときのムードだけじゃなくて、当時を代表する人を呼ぶことによって、もう一度そのムードをもっとリアリティあるものにするみたいな感じですよね。
haru._20年後にこの現代を象徴する人を召喚するってなったらどんな人になるんですかね。
村上_確かに、今のムードを作ってるのって誰なんだろうね。でも回ってくるものではあるから。そこにどういう違う要素が入ってくるのかが、その時代の写真家が工夫する部分。そのままやってもしょうがないって感じはあるので。当時のスーパーモデルたちが今出てくるおもしろさって、やっぱり歳をとってるっていうことだと思うんです。当時のピチピチプルプルのスーパーナイスバディみたいな感じではなくて、お母さんやってきたんだなとか、それなりに年齢を重ねているんだなみたいなことがわかる姿が、そこにいるっていうことが重要。アンチエイジングを頑張っている痕跡みたいなものが見えることで、「一緒に年齢を重ねてきたよね」って見ている人たちも感じられるし、それがむしろ新しいんだと思います。だから今のスーパーモデルブーム回帰のなかで、誰を撮るかのおもしろみの部分に、「その人たちが今どういう姿であるのか」っていうことが含まれてるんだと思います。
Profile
村上由鶴
1991 年生まれ。秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教。単著に『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社)、共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社)。 POPEYE「そもそも写真教室」、POPEYE WEB「おとといまでのわたしのための写真論」、晶文社スクラップブック「わかった気になる-反差別の手立てとしてのアート鑑賞」など、写真やアート、ファッションイメージに関する研究・執筆を行う。