ホワイトアスパラを調理して、ドイツの春に想いを馳せる朝 haru.×村瀬弘行【前編】

月曜、朝のさかだち

『月曜、朝のさかだち』シーズン2、第7回目のゲストはファッションブランド『suzusan』のCEO兼クリエイティブディレクターの村瀬弘行さんをお迎えしています。この日の朝活では、二人の出会いの場所でもあるドイツで春になるとみんなが食べるというホワイトアスパラを調理して食べました。グリーンアスパラよりも栽培に手間がかかる分、甘味が強く、ドイツでは春の訪れとして食卓やレストラン、マーケットなど、町中にホワイトアスパラが並ぶのだそう。ドイツではバター、レモン果汁、卵黄で作るオランデーズソースにつけて食べることが主流ですが、今回は村瀬流で、シンプルに塩とオリーブオイルでいただきました。下処理はピーラーで皮を剥くだけですが、「意外と硬いんですね」とharu.さん。茹でるだけで、甘味が増し、シンプルながらも素材の旨味を楽しみました。

朝活を終えた二人は、初めて出会った日のことを振り返りながら、村瀬さんがブランドを立ち上げるまでに辿った人生について、ブランド『suzusan』の誕生秘話、伝統工芸有松鳴海絞についてお話しいただきました。
本編へ進む前に、まずは視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
村瀬弘行さんに聞きたいコト
Q.日本とドイツ、それぞれ好きなところはどこですか?
A.日本→地域性のある豊かなものづくりの文化。たくさんの食材と美味しいご飯(ししゃもが好きです。) 出会う人たちの誠実なホスピタリティ。
ドイツ→アートや音楽などクリエイティビティが身近にある環境。広告が少ない街の風景。鳥や動物がたくさんいる公園。
Q.出身国も職業も異なる人と関わることが多いと思いますが、どんなことを意識してコミュニケーションをとっていますか?
A.海外に戦いに行くのではなく、相手の文化をリスペクトして世界中に友達を作りに行く姿勢を大事にしています。日本だからいい、ではなくあなたの文化も素晴らしいですね、こういうところが国を超えても共通するものありますね、と共感する価値観、共有できる視点を行く先々の土地で出会う人たちとの会話で探そうと常に思っています。
Q.新しい環境に飛び込んだり、新しいことに挑戦したり、村瀬さんの行動力がスゴイなと思うのですが、どのようにしてその力は培われたと思いますか?
A.僕の周りには尊敬できる友人や仕事仲間、人生の先輩達がいて、その人たちからたくさんインスパイアされています。1歩目はいつも怖いし今でも不安になる時もたくさんありますが、そういう人たちからエネルギーをもらっています。周りの人が飛び込む力を僕にくれています。あと知らないことに出会う好奇心が恐怖に勝ることは多くあります。平坦で安全な道と難しくて面白くなる可能性がある道の二択を選ぶというときは意識的に後者を選ぶようにしています。結果失敗もたくさんありますが、やらなかった後悔はないですし失敗から学ぶことの方が成功から得るものより多いと思っています。

「価値は場所によって変わる」 自分の価値を証明しに渡った海外の地
haru._村瀬さんのことを普段はひろさんと呼んでいるので、今日もひろさんと呼ばせていただきますね。というのも、ひろさんとはお付き合いが長く、私が15歳ぐらいのときにドイツで出会ったんですよね。もう30歳になりました(笑)。
村瀬弘行(以下:村瀬)_haru.ちゃん30歳になったの(笑)!?
haru._なので初めて会ったのは15年ぐらい前なんですよ。当時私は、おばあちゃんとおじいちゃんとドイツに住んでいて、ある日おばあちゃんと公園に散歩へ出かけていたら、そこにひろさんがいたんです。公園に池があって、そこでひろさんは白鳥に喋りかけていて。それを見たおばあちゃんが「あの人は絶対に日本人だから話しかけるぞ」って言って、ズンズンひろさんの方に行って、そこで初めましてをしたんです。
村瀬_おもしろいよね(笑)。もう15年前なんだ……。あの時のharu.ちゃんはバンビみたいな少女だったよね。
haru._そうですよね。今でも関わりのある人のなかでは、実は一番長く私のことを知ってるんじゃないかな。
村瀬_そうかもしれないね。まだ友達でいてくれて嬉しい。
haru._こちらこそです。ひろさんとの朝活ではホワイトアスパラを調理して食べました。この朝活はひろさんが提案してくれたんですよね。
村瀬_ドイツは春になると、みんな「待ってました!」という感じで、ホワイトアスパラの季節という認識なんです。ドイツの食生活って、普段はあまり季節感がないんですけど、春だけは「ホワイトアスパラを食べるぞ!」ってみんなムードが盛り上がるんですよ。
haru._街を歩いていても、どこのお店も「シュパーゲル(ドイツ語でホワイトアスパラの意味)あります」という看板を出していますよね。
村瀬_実際に美味しいんだよね。僕も好きでよく食べてて、ちょうどホワイトアスパラの時期というのもあって提案しました。それに、たぶんharu.ちゃんと初めて会ったのも、このぐらいの季節だったと思うんだよね。ドイツの公園に白鳥がいたっていうことは、渡り鳥が春になって戻ってきていた時期なんだと思う。なんか話していたら、いろいろ思い出してきたぞ。公園の池のそばに座っていたら、白鳥が来て「ガガガガ」とこっちを見ながら言っていたんです。だから「こんにちは」って話しかけたら、向こうも「ガーガー」言ってきたので、これはコミュニケーション取れるぞと思ってガーガー話していたんです。そしたらharu.ちゃんのおばあちゃんが来て、「あなた白鳥と話せるの?」って話しかけてくれて。その後ろにオドオドしてるharu.ちゃんがいたんです。今思い出したけど、そのときにharu.ちゃんが木蓮のふわふわした皮みたいなものをくれたんです。だから初めて会ったのはやっぱり春だったと思う。
haru._いろんな記憶を手繰り寄せてくれた(笑)。ひろさんと出会ってからは結構長いんですけど、ひろさんがどういう経緯で『suzusan』を立ち上げたのかとか、どんな学生だったのかとか、そういう話をしたことがない気がしていて。なのでいろいろと聞いていきたいんですけど、そもそもどうしてドイツにいたんですか?
村瀬_21歳のときから、デュッセルドルフのクンストアカデミーという美術大学(Kunstakademie Düsseldorf)*①で美術を勉強してたの。
haru._それはなんで日本じゃなくてドイツだったんですか?
村瀬_簡単に言えば、日本の大学が僕を入れてくれなかったんです。もともと高校生のときに、彫刻科に進学しようと思っていたから、予備校に通ってデッサンの勉強をして、現役で受験したんだけど入れてくれなくて。一浪してもう一回受けたときは、「これはいけるぞ」と自信もあったんです。合否を確認するために名古屋から東京行きのバスに乗って、「来週から東京に住むぞ」と気合いが入った状態で向かったら、合格者の受験番号が貼られているボードに僕の受験番号は載っていなくて。そのときに、「これは僕がいかんのじゃなくて、この大学がいかんな。センスないな」と思って、名古屋に帰る夜行バスのなかで、ふと外国に行くことを決めたんです。そこから1年アルバイトをしてお金を貯めて、20歳のときにまずイギリスで美術を勉強しました。ただ、1年経った頃にお金が無くなってしまって。そのときに住んでいた学生寮にいたドイツ人の女の子が、ドイツは学費が無料だということを教えてくれたんです。そこでドイツのアートについて調べていたら、僕の好きなゲルハルト・リヒター*②とかヨーゼフ・ボイス*③がデュッセルドルフに縁があることを知り、行くことを決めました。
haru._そこでクンストアカデミーを受験したんですか?
村瀬_そうそう。今も受験方法は変わっていないと思うんだけど、世界中からポートフォリオが送られてきて、それを先生が数日かけて見るらしいの。それだけで判断されるから、性別や国籍、年齢みたいなフィルターがなく、ただおもしろいかおもしろくないかで判断される。それがすごくフェアでおもしろいなと思ったんだよね。先生を見張るための学生アルバイトもいるらしくて、先生が怠けているとベルを鳴らす人がいるんだって(笑)。そこに僕もポートフォリオを送ったら、受かったんです。
haru._クンストアカデミーは定員も決まっていないんですよね。
村瀬_そう。入学者が40人のときもあれば、100人のときもある。基本的にペインティング、彫刻、写真、建築、舞台芸術の学科があって、デザインやファッションの学科はないんです。
haru._じゃあひろさんは、もともとアーティストになりたかったんですか?
村瀬_ずっと彫刻アーティストになりたいと思ってた。僕が入った学科では、1年目はみんなごちゃ混ぜの何をやってもいいクラスで、2年目から学びたい先生のゼミに入るんだけど、僕は立体的なものやインスタレーションをやりたかったから、彫刻と建築が混ざったようなクラスに入りました。
haru._ひろさんが日本の大学に行けなかったときに、「自分は芸術に向いていないのかも」と思わなくてよかったなと思いました。
村瀬_それは思わなかったね。
haru._私は日本の美大に行っているから、予備校でも2、3回目の受験っていう子たちもいたんです。心から表現したいものがあるのに、受験というシステムに合わせなきゃいけない。そのことにすごく疲弊している姿を見ていたから、そこからピョンと飛び出したのはすごい。
村瀬_当時はただただ不貞腐れて、「こんなところにいられるか!」みたいな感じで海外に行ったんだけどね(笑)。でも例えば、a地点で価値がないものを、b地点に持っていったら価値が生まれるみたいなことって、僕がやっている伝統工芸でも同じことが言えて。日本だとどんどん価値がなくなっているけど、それを違うb地点に持っていったら、それを価値として認めてくれる人がいる。
haru._自分が変わらないといけないみたいに思うことってすごくあるけど、場所が変われば、自分の捉え方や見られ方も変わりますよね。
村瀬_マルセル・デュシャン*④も好きなんだけど、デュシャンの普段見慣れている男性用便器を横に倒して、『泉』という名前をつけた作品が、20世紀最大のアートの一つとなった話があるけど、その感覚に近いなと思っていて。素晴らしい便器を作ろうと頑張らなくても、既にあるものを他の場所に持っていくという行為や、そこに新しい名前をつけるという行為自体が何かを変えることに繋がるのかなと今では思ってる。当時はそこまで考えずに過ごしていたんだけどね。
当たり前だったものの価値に気づき生まれたブランド
haru._ひろさんがCEO、そしてクリエイティブディレクターをしている『suzusan』についてもお伺いできればと思っています。『suzusan』は愛知県有松の伝統工芸「有松鳴海絞」を活かしたブランドですよね。
村瀬_はい。haru.ちゃんも一度来てくれたけど、有松っていう地域はすごく小さな町で、名古屋市ではあるんだけど、東海道が真ん中にあって、その道沿いに絞り屋さんが並んでいるような場所なんです。昔は、一つの浴衣や反物を作る工程に大体6、7家族が、それぞれの分業を持っていたんです。工場みたいな場所はなくて、糸と針と簡単な道具があれば、畳一畳でものが作れちゃうから、みんながそれぞれの家で作っていました。だから毎日布が家にあって、毎週パートのおばちゃんが家に来て、僕が小学校から帰ってくるとそのおばちゃんたちが「おかえり」と言ってくれるような環境で暮らしていました。それがすごく日常だったから、特別なものだと全然思っていなかったし、そこに価値も見出していなかった。なのでアートをやろうと思ったのも、ただものを作りたいと思ったからで、そういう家系という文脈とは全然違うところから来ていたんです。
haru._むしろ継ぐ意思がなかったからこそ、海外にも行こうと思えたのかもしれないですね。
村瀬_そうそう。もともと有松って、東海道沿いの宿場町と宿場町の間にあった場所で、山間で山賊が出て危ないから、尾張藩がそこに村を作ろうと決めて、1608年に数家族が入ってきてできた場所なんです。ただ当時は産業が何もなく、名古屋城を築城していた時期だから、有松にやってきた家族も働きに出ていたそうなんです。そこで他の地域の坑夫が染めた手拭いを頭に巻いているのを見て、「これだったら俺にもできそう」と思い、始めたそうなんです。いまだにそうなんだけど、有松って絞りで染めるだけで、織ったりはしないんです。有松の周りに知多とか三重という場所があるけど、そこは江戸時代初期に木綿の栽培が始まったところで、そういった場所から織られたものを仕入れて、有松絞りをするというのが歴史の始まり。それが江戸幕府ですごく気に入られて、お殿様が「絞りは有松でしか作っちゃいけない」というお触書きを出してから250年ぐらい産業として発達して続いてきたんです。世界中に染めの技術ってあるんだけど、大体一つの地域に多くて2、3つくらいの種類しかないんだけど、有松には200種類以上あるっていうのが特徴的なんですよね。
haru._その200種類をいろんな家族で分担してやっていたんですか?
村瀬_そうそう。「誰々さん家は何々絞り」みたいなのがあって、基本的に山田さんがいたとしたら、山田さん家の山田絞りは山田さんしかやらない。
haru._へー!そのときに流行りの柄とかもあるんですかね。
村瀬_ある!浮世絵を見るとおもしろいんだけど、浮世絵って今で言うアイドルみたいな人たちを描いているから、その人たちが着ているものを見ると、結構絞りがある。絞りを着ているとスターの証みたいな認識だったみたい。
haru._おもしろい!
村瀬_歌川広重*⑤の作品にも有松の絵があるんだけど、その風景がいまだに残っていたりする。
haru._実際に行ったときに、昔ながらの風景が残ってるなと感じました。
村瀬_それも実は奇跡的に残っていて。名古屋って戦災ですごく被害にあった場所なんだけど、有松の近くに偶然アメリカ軍の捕虜の収容所があったこともあって、爆撃されなかったんです。だからあの地域だけぽっかりそのまま江戸時代の風景が残っている。
haru._ひろさんが『suzusan』を今のかたちで引き継ごうと思ったのはいつだったんですか?
村瀬_きっかけは二つあって、一つはドイツに来て3年目ぐらいで、ある日父親から電話がかかってきて、「今度イギリスの展覧会に招待されて出展するから、弘行手伝ってくれ」と言われて、手伝うことになったんです。父親が作った布を壁に貼ったり、浴衣を見せたりしていたんですけど、日本だったらそういうものを見ても、過去の古いものを見るような感じで捉えると思うんです。でも、イギリスで見たときに、なぜだか美しいなとスッと思えたのと、来てくれた人たちが、美しいものを初めて見たかのようなダイレクトな反応をしているのを見て、これっておもしろいものなんだと初めて思えたんです。
その後に父親がテキスタイルを持って帰れないから預かることになったんです。僕の妻は絵描きなんだけど、彼女の先生がロンドンにアトリエを持っていて。そこに泊まらせてもらっていたんだけど、そのアトリエの隣に世界的に有名なギャラリーがあって、妻の先生が「ギャラリストに見せてみたら?」って言ってくれたんです。実際に見せに行ったら、「素晴らしい!」と言ってその場で数点買ってくれたんですよ。そのギャラリーはターナー賞*⑥を取ったアーティストや、草間彌生*⑦の作品を扱っていたりと、大御所ギャラリーなんだけど、「そんなすごいギャラリーの人が、東洋の伝統的なハンドクラフトを見て美しいと思うんだ!」とすごくハッとさせられたのがきっかけの一つ。
もう一つのきっかけは、ベネチアビエンナーレに行ったときに、ベルギーのギャラリストでインテリアデザイナーのアクセル・フェルフォールド*⑧の展覧会をやっていて。その展覧会では、アクセルが世界中から集めたコレクションが展示されていて、キャプションもつけずに、ただ部屋中にいろんなものが置いてあったんです。現代アートなのか、伝統的なオブジェなのか、東や西、有名か無名か、高価なものなのかそこらへんのものなのか、何もかもがわからずごちゃ混ぜにあって。抽象的なペインティングを見ても、それが新しいものなのか、何千年前のものなのかもわからない。そういう価値がぐちゃぐちゃになっているものを見たときに、それまでは西洋のアートが高い位置にあり、アーティストがそうした美しいものを作っているという認識だったけど、それが一度フラットになったんです。すごいものを見てしまったなと。それで頭の中がごちゃごちゃになって、イギリスでのこともあり、ふと実家でやっていたことっておもしろいことだったのかもなと思ったのがきっかけ。ただ、それは興味を持ったきっかけで、仕事にしようとは思っていなかったんです。
haru._仕事にしようと思ったのはどんな経緯なんですか?
村瀬_父親から預かってたテキスタイルを持ってドイツの学生寮に帰ったときに、部屋をシェアしている3人のうちに東ドイツ出身の男がいて、彼がそのテキスタイルにすごく興味を示したんです。実家でこういうことをしているんだよと話したら、すごく興味を持ってくれて。彼はクンストアカデミーではなく、経営の勉強をしていて、卒業したら何かをやりたいと漠然と思っていたらしく、しばらくしてからキッチンでビールを飲んでいたら「これでビジネスをやらないか?」と言ってきたんです。僕はずっとアーティストになるつもりでドイツにいたんだけど、そのときに「おもしろいかも」と思ったの(笑)。
haru._そこでひろさんが絞りの技術を使ったアーティストになるんじゃなくて、ビジネスを立ち上げることになったのがおもしろい。
村瀬_僕のなかでアートと絞りっていうのは全く別物だったんだよね。それはいまだにそうなんだけど、アーティスト村瀬弘行っていうのは、自分のために作るという感覚で、『suzusan』のデザイナー村瀬弘行は、誰かのために作ると、明確に分けているんです。アートを勉強していたときも、テキスタイルを自分の作品として使うこともなくて。学生を終えるときに、初めてテキスタイルを用いたものを作ったのが『suzusan』で。でも、みんな『suzusan』を始めたのは僕だと思っているかもしれないけど、実はそのフラットメイトがきっかけなんだよね。僕に「一緒にビジネスをやろう」と言ってきた一年後に彼は先に学校を卒業するんだけど、そのときに「どうやったら日本の伝統工芸をヨーロッパのラグジュアリーマーケットでビジネス展開できるのか」というテーマで卒業論文を書いたの。それがベースになって『suzusan』というブランドができたんです。
ドイツって学費がないから、入学試験はあるけど、入ったら入ったで授業や成績がなくて、基本的に落第もない。先生もたまにしか来ないし、先生に「卒業します」って言わなければ、いつまでもいていいシステムで(笑)。だから10年ぐらいいるプロの学生もいたりする(笑)。僕も学生中の2008年に会社を作って、そこから忙しくなっちゃったから、卒業しなくてもいいかなと思っていたんだけど、母親に「卒業だけはしなさい」と言われて、2011年になんとか卒業しました。
対談記事は後編に続きます。後編では、ブランド『suzusan』に込めた「風通しの良いデザイン」とはどのようなものなのか、伝統工芸の再解釈について、haru.さんもビジュアルディレクション、モデルとして関わった和装ライン『鈴三』の立ち上げなどについてお話しいただきました。そちらも是非楽しみにしていてくださいね。
それでは今週も、行ってらっしゃい。
1773年にドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州・デュッセルドルフに設立されたドイツ国立の美術大学。国立デュッセルドルフ美術大学とも表記される。
*②ゲルハルト・リヒター
1932年、ドイツ東部、ドレスデン生まれ。ベルリンの壁が作られる直前、1961年に西ドイツへ移住し、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学ぶ。コンラート・フィッシャーやジグマー・ポルケらと「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動を展開し、そのなかで独自の表現を発表し、徐々にその名が知られるように。その後、イメージの成立条件を問い直す、多岐にわたる作品を通じて、ドイツ国内のみならず、世界で評価されるようになる。現代で最も重要な画家としての地位を不動のものとしている。
*③ヨーゼフ・ボイス
1921年ドイツ・クレーフェルト生まれ。戦後、作品を通じて、全体主義への批判や社会に対する強い問題提起を行う。先住民を象徴するコヨーテと暮らすパフォーマンス《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》を行い、ドイツ・カッセルでは石柱と共に7000本の樫の木を植えた。政治や経済の分野においても、社会構造の変革に関わる試みはすべて芸術であり、そのために「すべての人間は芸術家である」と説いた。
*④マルセル・デュシャン
1887年フランス生まれ。14歳の頃から絵画に取り組み、印象派の影響を受けた風景画などを描いた。1912年、キュビスムや未来派を思わせる『階段を降りる裸婦 Ⅱ』を制作。その翌年から従来の絵画を離れ、「美的無関心」を基準として選ばれた自転車の車輪、ビン掛け、シャベルなどの既製品を作品化し、「レディメイド」の概念を打ち出した。
*⑤歌川広重
江戸時代の浮世絵師。「東海道五十三次」(保永堂版)をはじめ数多くの名所絵を世に送り出し、江戸時代後期を代表する浮世絵師として知られている。中でも、晩年に手掛けた「名所江戸百景」は独創的な構図で江戸の街並みを描いたシリーズで、のちにゴッホが模写するなど国内外で高い評価を得ている。
*⑥ターナー賞
イギリス人もしくはイギリス在住の美術家に対して毎年贈られる賞。19世紀イギリスのロマン主義の画家J.M.W.ターナーの名にちなむ。 1991年から2016年までは50歳以下の美術家を対象としていたが、アーティストは年齢に関わらず作品のブレークスルーを経験するという理由から、現在は年齢制限がない。
*⑦草間彌生
前衛芸術家、小説家。1929年、長野県松本市に生まれる。幼少期より水玉や網目を描く。1957年に渡米、ニューヨークを拠点にネット・ペインティング、ソフト・スカルプチャー、鏡や電飾を用いた革新的なインスタレーション作品を発表。さらにボディ・ペインティング、ハプニング、ファッション・ショー、映画など多様な表現を欧米で展開する。1973年に帰国、活動拠点を東京に移し、美術制作に加え、詩や小説の文筆活動も行う。野外彫刻や企業とのコラボレーション、ドキュメンタリー映像などを通じて幅広い世代に知られるようになる。
*⑧アクセル・フェルフォールド
ベルギー出身のインテリアデザイナー、アートディーラー、アンティークコレクター。独自の美学「ウェイ・オブ・ザ・ウェア」を基に、ミニマルで洗練された空間デザインを手がける。アンティークとコンテンポラリーアートを融合させたスタイルで世界的に評価され、ロバート・デ・ニーロやカニエ・ウェストなどのクライアントを持つ。自身のギャラリーとデザイン会社を拠点に活動中。
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Profile
村瀬弘行
suzusan CEO兼クリエイティブディレクター。有松絞りを営む職人の家系に5代目として生まれる。アーティストを目指して20歳でヨーロッパへ渡り、ドイツ・デュッセルドルフの国立アカデミーで立体芸術と建築を専攻。2008年在学中に数本のストールでオリジナルブランド『suzusan』をスタートさせ、現在では世界29か国、120店舗で取り扱われている。また自社ブランドにとどまらず、日本の伝統工芸の継続性と循環を生み出す社会活動も精力的に展開している。