“個”を大切にした家族でありたい 藤岡聡子
ことなるわたしたち
連載「ことなるわたしたち」のモデレーターを務める、山瀬まゆみさんの育児休暇にともないスタートした番外編「ことなるわたしの物語」。山瀬さんの復帰後も、この連載は継続していくことになりました。いまを生きるひとりの女性のリアルな暮らしを垣間見ることで、人生の選択肢を増やすきっかけを込めてお届けするシリーズ。9人目に登場いただくのは、福祉環境設計士として活動する藤岡聡子さんです。
2020年、コロナ禍の最中に長野県軽井沢町で福祉医療施設「診療所と大きな台所があるところ ほっちのロッヂ」を医師の紅谷浩之さんと共に立ち上げた藤岡聡子さん。この事業をきっかけに、2019年に軽井沢に移住を決めるも、夫は東京に住まいを持ったまま、3人の子どもを連れて藤岡さんは軽井沢に住むことを決めた。夫婦が同じ場所に住まわず、それでも家族として暮らしていく。その子育ての考え方を藤岡さんのこれまでの人生と共に考えてみる。
家族であってもいずれ“死”という別れがある
藤岡さんは12歳になる年に父親と死別をしている。
「自分の父親が病気になって亡くなるまで約2年間ぐらいあったんですが、当時、私は小学6年生ということもあって、父親の死からはできるだけ遠ざけられたんです。お父さんが大変だからあんまり近づいちゃダメとか騒がしくしちゃダメとか、学校でいい子にしてなさいとか。だから私は父が死んでしまう、ということに対して、心の準備ができていませんでした。そうした自分の経験は、あらゆる状況に置かれる方たちや、医療者たちに向けて『年齢や症状、状態じゃなくって、好きなことする仲間として出会おう』という『ほっちのロッヂ』のコンセプトを伝え、実践し続けていることに通じていると思います。暮らしの中に喜びも出会いも、そして別れや喪失があることを伝えたいという思いはありますね」
思春期、出産、子育て、生きづらさを感じることが多かった節目の人生
中学生になると、不登校になり、強烈な反抗期を迎えたという藤岡さん。10代半ばになると、定時制高校に通うようになり、社会で生きづらさを感じる人たちが集まる環境の中で思春期を過ごした。そして、20代になり、就職活動をしている中で現在の夫と出会い、付き合うことに。就職した後、二人は東京と関西でしばらく遠距離恋愛を続ける。社会に出て3年目ごろ、妊娠と同時期に母親の末期がんを宣告され、育児と母親の療養のために、創業した現場を離れた。
「遠距離恋愛の中、夫と婚約をして、同時に妊娠もしていることがわかりました。当時私は友人と住宅型有料老人ホームの立ち上げに没頭していて、現場が本当に楽しかったので、妊娠しても、私は関西に拠点を置き、夫は東京に拠点を置いて生活していました。でも、悪阻がひどく点滴を打って寝たきりという状況になってしまい、同時期に母親の末期がんがわかったため、今の生活は維持できないと判断し、夫のいる東京へ住居を移しました。長男が生まれ、育児と並行しながら、母の療養生活を支えるために東京と実家の三重県を行き来する生活をしばらく続けていました」
介護事業を諦め、東京に戻り、夫と子どもと生活をすることに。仕事を完全に辞め、初めて専業主婦として暮らす人生。そして、長男が1歳になる少し前に、母親を亡くした。
「母が亡くなったとき、長男は1歳。それだけでもショックが大きかったのに加え、私は“仕事”が楽しくて仕方なかった性質なので、産後クライシスのようなものが本当にひどくて。心中が定まらない感じもあって、ずっとしんどかった時期でした。全てに過敏になっていて、もともと激情型な性格ではありますが(笑)、母親になったのに、自分の母親には頼れない現実、そして仕事がなくなったために、自分の名前を呼ばれなくなった現実が襲い掛かりました。“〇〇くんのママ”と呼ばれるコミュニティの中に対して、私は名前さえ取られてしまうような社会に、とにかく激っていたんです」
山々や田んぼがある中で、仕事と暮らしがしたいと、移住という舵を切る
そんな中、社会との接点をどうやったら自分なりに持てるのかを探し始めたという藤岡さん。会社員に戻るイメージは浮かばないし、これまでやってきた仕事のスタンスを東京で続けてみることを想像してみても、子どもとの時間は取れない上に、園庭のない保育園に7:00~18:00まで預けっぱなしになってしまうような生活が訪れるだけ。東京では自分が納得できる子育てはできないと感じていた時、軽井沢にある“軽井沢風越学園”が2020年に設立されるという情報を耳にする。
「社会に対して“自分は無価値ではない”っていう環境を作らないと当時は自分が壊れそうでした。そんな時に風越学園の話を聞いたんです。まず長野県なら、生まれ育った徳島県や三重県のように、山や田畑がある光景の中で暮らすことができる。そしてユニークなコンセプトを持つ学園と一緒に何か社会に繋がれることをしたい、そんな気持ちが芽生えて、だれに頼まれてもないのに、学園にこんな環境を一緒に作ってみませんか? と言う手紙まで送って(笑)。それで理事長の方と話をさせてもらう機会もいただいて。そのときに思い描いていたコンセプトは変わらず、学園の理事長から紹介された人(医師・紅谷)と意気投合し事業として形となったのが、“ほっちのロッヂ”なんです」
ほっちのロッヂは、風越学園の真向かいに位置する。事業は内科、小児科、緩和ケア、在宅医療を担う診療所として、病児保育や訪問看護、児童発達支援、放課後等デイサービスなど多岐にわたる。藤岡さんは、働く場所、子育ての場所、そして家族と生活する場所を一つのエリアに定めた。
「子どもと一緒にいる時間も欲しいけど、自分が働く時間も欲しい。そういう意味で長野・軽井沢町への移住は社会と子育て、いずれも繋がりが持てると思える選択でした」
5年間、東京での家族全員との暮らしを経て、夫婦は二拠点生活へ
気持ちが決まってからの藤岡さんの動きは早い。夫との相談もなく軽井沢の移住の決断をしたという。その時の夫の反応はどうだったのだろうか?
「夫は、東京で生まれ、思春期と言える時代は渡米して留学経験も持っていて、いわゆるエリート街道のような人生を送っている人。歩んできた道が全く違うというのは結婚する前から夫も理解はしていたんです。付き合って数ヶ月経った頃に『老人ホームを創業するから遠距離ね!』という選択も理解してくれたくらいですから、この時も、そこまで驚いてはいなかったと思いますね。 私たちが夫婦になってから、平日を別々に暮らしている時間というともう長くなりますが、定期的にじっくり今後のことについて話し合ってはいるんです。長い時は3時間くらい話し込んだりして(笑)。私が長期出張であれば夫も平日は軽井沢の家にいますし、今はそうやって家族との生活を補いあってる感じですね」
今年、長男は全寮制学校へ
そして、今年から、藤岡さん家族は新たな決断をする。長男が全寮制の学校(海外)へ期間限定で入学した。
「夫は小学6年生から高校1年生前まで、アメリカの公立学校に通っていました。人種の差も感じたようだし、もちろん言語の壁もあって非常に苦労したみたいで。一方で私も小学6年生で父親を亡くし、母子家庭になってすごく大変な時期を同じくして迎えていました。お互いの経験から、若いうちに苦労して頑張るという経験をさせたいな、と。」
早くから父親を亡くし、子育ては母親との3世代が暮らす時間もなかった藤岡さんにとって、誰よりも家族との時間を考えているからこそ、子どもとの時間と仕事というバランスを考えて移住を決断したに違いない。それなのになぜこのタイミングで家族を離れ離れにするような決断をしたのか。
「たしかに私は、父親との別れに準備ができていませんでした。『ほっちのロッヂ』と呼ぶ診療所の“ようなもの”を創業するという事業活動はそうした自分の過去の経験がとても大きいです。私は、この“別れ”の準備をするというのは、“自立する”ということでもあると思うんです」
別れを受け入れるためには、相手がこの世に存在している中で、自分と向き合い、“個”を持ち、自立していく準備をする時間が必要であると考える藤岡さん。父親を失った時は、その時間がなかった。だからこそ、子育てに対してはその時間を与えたいと考える。
スキルを持たせるのではなく、自分は何者かを考えれるようになって欲しい
「子どもに対しては、最終的に本人たちがどうやって自立できるのか。そこだけを考えています。私が子どもたちにできることって、物事を捉えた時に、それをどう考えていくか、または一緒に考えていくか。我が家はお兄ちゃん、お姉ちゃん、パパ、ママという言葉は存在しません。全て名前でそれぞれを呼んでいます。“お兄ちゃんなんだから”ということで怒ることもないし、“女の子らしく”なんて言ったこともない。 “個”として、うちでは“I=私”を大切にして欲しいって思っているんです」
「もちろん、私は子育てを通して、子どもから得られるものはたくさんもらっていて、その分、子どもにとってはいつまでも保護対象なのかということを考えたりもします。でも、子どもが自立してできることがあるならば、それを取り上げて保護者として管理することでもないんじゃないかなとも思っています。また、母親として、全部やらなければいけないかというと、実はそうじゃない、とも思うんです。私は“聡子”なので。母だからこうしなきゃいけないとか、妻だからこうしなきゃいけないとか、たくさんあるけれど、できる限りは周りの人と、役割を分け持つことを意識しているんです。全部、一人で背負わない、担わない」
「極論、5人家族だからって、5人が離れないで暮らすという選択をしなくてもいいんじゃないかと思っています。むしろ、お互いが生きているうちは、いつ離れてもいいように準備はしておく。だって本当にいつ死んじゃうかなんてわかんないじゃないですか。私は今39歳。そして父親が45歳、母親が59歳で他界しました。毎年、その歳に近づいていく怖さもあります。その怖さは、残される家族がどう準備できるかということの方が大きい。お互いがどれだけ準備をできるか。センシティブに考えすぎているわけではないんですけど、すごい根っこにありますね。もちろん一緒にいれることが喜びなんだけれども、いつ離れたってお互いにありがとうって思える家族の距離感があればそれでいいんじゃないっていう気持ちでいます」
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Profile
藤岡聡子
徳島県生まれ三重県育ち。長野県軽井沢町在住。夜間定時制高校出身。人材教育会社を経て「老人ホームに老人しかいないという違和感」を元に24才で有料老人ホーム創業メンバーとして、アーティスト、大学生や子どもたちとともに町に開いた居場所づくりを実践。2015年デンマークに留学し、幼児教育・高齢者住宅の視察、民主主義形成について国会議員らと意見交換を重ね帰国。東京都豊島区の元空き家をリノベーションしたゲストハウス1階にて「長崎二丁目家庭科室」を主宰、2019年より長野県軽井沢町にて「診療所と大きな台所があるところ ほっちのロッヂ」を始め共同代表。「第10 回アジア太平洋地域・高齢者ケアイノベーションアワード2022」Social Engagement program部門日本初グランプリ受賞、同年グッドデザイン賞2022受賞/審査員の一品にも特別選出。共著に『社会的処方』『ケアとまちづくり、ときどきアート』。主な掲載先にAERA「現代の肖像」他。3児の母。