離婚からはじまった、あたらしい家族のかたち 安達麻美子
ことなるわたしたち
モデレーターを務める山瀬まゆみさんの育児休暇にともなって配信する番外編「ことなるわたしの物語」。いまを生きるひとりの女性の暮らしを垣間見ることで、人生の選択肢を増やすきっかけを届けられたら。
4人目は、ファッションブティック「QUADRATO BOUTIQUE」のオーナーとして活躍しながら、13歳になる娘を育てる安達麻美子さん。26歳で起業し、当時会社を一緒に立ち上げたビジネスパートナーとはすぐにプライベートでもパートナーとなり、34歳で彼との間に子どもを授かった。しかし、彼女にとって〝結婚=入籍〟という考えがしっくりこなかったこともあり、出産後もしばらく事実婚を続け、子どもが4歳の時に入籍。しかし、彼との歯車がくるいはじめ喧嘩が絶えなくなり、39歳で離婚。46歳となった今、離婚という決断によって、彼との亀裂が入った関係が修復でき、今では本当の意味で〝家族〟になれたと語る。離婚から始まった、新しい〝家族〟の形とは?
結婚という形を続けたら、笑顔で暮らせないと思った
__お子さんの父親との出会いから教えてください。
「イタリアでもともと興味のあったアパレル業界で経験を積み、6年住んで帰国しました。そして、26歳でイタリアブランドの日本の窓口となる会社を一緒にスタートさせた人と、私生活でもパートナーになり、子どもができたんですが、籍を入れたのはパートナーになってから8年後、子どもが4歳で幼稚園に入る頃でした。」
__〝結婚=入籍″の形をすぐに取らなかった理由は?
「イタリアは事実婚が多かったし、離婚している人も多かったんですね。そんな中で、男女の仲は上手くいかなくなって離婚はしても、両親で子どもを見続ける友人たちを見てきてたので、別に結婚=入籍はしなくてもいいんじゃないかと。それで、入籍せず子どもは私の籍に入れ、親権も私が持つことにしました。」
__のちに入籍した経緯は?
「子どもが幼稚園に入った年の私の誕生日に、子供と一緒にサプライズで『結婚しよう』と言われたんです。子どもに言われると、…ねえ?(笑)。」
__籍を入れて夫婦関係は変化しましたか。
「いい方向には変わらなかったですね。むしろ、一層、踏み込んでしまってはいけないところまで言い合って喧嘩をしてしまうことが増えました。仕事は軌道にのっていったものの、私の負担がどんどん大きくなっているように感じていましたし、子どもが成長して子育てもどんどん大変になっていく中で、もうちょっと彼のサポートが欲しかったというのが正直なところで。私は、もっと仕事も、プライベートもリードしてくれる男性を求めていたような気がします。この状態がこの先も続くのかと思うと、彼と笑って一緒にいられることが想像できなくなって、離婚を決断しました。」
__お子さんがいると、離婚をためらう人も少なくないと思うのですが。
「離婚しても良好な関係で子育てをしている人達を見てきたので、私の場合はそういうことはなかったですね。早く踏ん切りをつけるほうがお互いのためだと思ってたんですけど、彼はすぐには離婚に納得しませんでした。彼は夫婦関係に問題があるからすぐに別れるんじゃなくて、一緒にクリアしていくことこそが夫婦なんじゃないかという考え。私の気持ちが変わるかもしれないから、1年別居しようと提案してきたんです。その提案を受け入れ、離れて暮らすようになったら精神的ストレスが減ったんですよ。それで、私の中で離婚したい気持ちがより高まったことは、彼にとっては、誤算だったかもしれません(笑)。
ただそんな一連のながれの中で誰に一番負担をかけてしまっているかといったら、やっぱり子どもなんです。喧嘩している姿を見せてしまうこともあったし、なにより家に帰るのが遅いせいでなかなか一緒にいてあげることが難しかった。その埋め合わせとして、半年に1回程度の頻度で2人で旅行に行って、一緒にとにかくのんびりする時間をつくるようにしたり、料理だけでも母親の存在を感じてもらえるように夕ごはんだけは朝出掛ける前に準備するようにしました。果たせてるかは分かりませんが、それが私なりの償いですね。」
互いに思いやりを取り戻し、新たな〝家族〟に
__離婚してパートナーとの関係は改善しましたか?
「それがなかなか難しくて…。子どもは、平日は私の家で、週末は彼の家で暮らすという風に決めたんですが、彼が金曜に子どもを迎えに来て、顔を合わせても、口もきかなかったです(笑)。離婚してから5年くらいはビジネスパートナーではあったんですけど、仕事上での関係もますます悪くなっていきました。離婚前は仕事を終えて家に戻ってから喧嘩をしていたのが、一緒に住まくなったことで、会社で喧嘩をするようになってしまったんです。」
「私が始めたインスタでお客様が増えて休みなく働く一方で、彼は車を買い替え、千葉に山を買うんですね。もう夫婦でもないし、彼のお金でやっていることだから私が何かいう立場では関係ないんですけど、ちょっと待てよと(笑)。どんなに私が頑張っても、その分、自分に返ってくるわけじゃない。何のために働いてるのだろうと思うようになって、会社から抜けることを考えるようになりました。『私が抜けるのか、あなたが抜けるのか』彼と話し合いを持ち、結果として私が会社の借り入れも背負って代表になることになり、彼は千葉に買った山を自ら切り開いて、グランピングキャンプ場兼撮影ロケーション場所の経営を始めました。」
「関係性がよくなったのは、そこからですね。子どもに言われて、彼の千葉の家に泊まりに行った時に、久しぶりに私が作ったごはんが並んだ食卓を3人で囲みながら『ああ、これが彼の理想だったんだな』ってしみじみ思いましたし、子どもも嬉しそうで。そういう経験を重ねながら、子どものことも相談できるようになっていきました。離婚以前は『パパからもちゃんと言ってよ』って言っても、『俺を巻き込むな、二人が解決してよ』というスタンスだったんですけど、二人で子どもに向き合えるようになったんです。学校の行事にも彼はほぼ参加しています。旅行も3人で行ってます。役割分担もはっきり決まっていて、私がエアや宿泊先の手配を日本でして、現地では彼がすべてオーガナイズします。最近、彼の表情もイキイキしてるんですよ。仕事も、暮らしも別々にして、物理的な距離を置いたことで、私たちに精神的な余裕が生まれたんだと思います。」
__そんなふうにいい方向に変われた決定的な要因は何だったのでしょう。
「お互い思いやれるようになったことですね。職場も家も同じだった間は、自分だけがすべてを背負ってる気になってしまって、相手に優しくできなかったんです。振り返れば、仕事も家庭もすべて手に入れたくて、手に入れるためにはがむしゃらにやるしかない。そんな中で、相手のサポートを求めてばかりいたんですよね。子どものお迎えひとつとっても、私が行けない、彼も行けない、じゃあ私が行くしかないとなって、なんで私だけが…って思っていました。
離婚して仕事のフィールドが別々になって初めて、彼はキャンプの予約や撮影が入っていてどうにもできないことが理解できるから、素直に自分の仕事を後回しにして迎えに行けますし、先週、私が実家に帰らなきゃいけなくなった時も、彼が休みをとって東京に来て子どもを見てくれて。もし、婚姻関係を継続して、一緒に住み続けていたら、子どもは毎日喧嘩ばかりしている両親の姿を見なきゃいけなくなるし、私は本当に大切な人たちを失っていたかもしれません。」
理想の自分に近づくための努力は続けてきた
__離婚をしたいけどなかなか決断できない人も少なくありません。
「もし、決断できない理由が経済的なことなのであれば、自立のために働くとか、生活レベルを下げるとか、できることが何かしらあると思うんですよね。そうでもして離婚をしたいかどうか。今の生活を変えることが難しいと感じるなら、相手への感謝を忘れてはいけないし、やっぱり離婚して現状を変えたいのであれば、相手を変えようとするのではなく、自らが変わる努力が必要ではないでしょうか。よく、旦那さんの悪口を言う人っていますよね。私がその一人で、親友に愚痴ってばかりでした。最初は、受け止めてくれていたんですけど、ある時『私から見たら、変わろうとしてないのはお互いさまだよ』って言われてドキッとしました。
「私は、仕事もして子育てもしたい。何かを我慢したり、諦めたりするんじゃなくて、全部やりたい。10代でイタリアに行き、20代で会社を設立して、30代で出産しました。じゃあ、40代になった私には何ができているんだろうか。40代で新しい挑戦をするためにも、30代のうちにけじめをつけたくて、39歳で離婚したんです。」
__安達さんのように決断力があって、仕事も子育てもパワフルに生きられたら素敵ですね。
「ありがとうございます。人から『マミさんみたいなバイタリティが私にはない』と言ってもらうこともあるんですけど、わざわざ苦労を表に出す意味がないから見せないだけで、頑張ってきたんですよ(笑)。大変な時期も絶対に立ち止まらず、なかなか前に進めなくても、じたばた足踏みだけは続けていました。人並以上に苦労も努力もしてきた自負はあります。
籍を入れることも、離婚することも大きな決断でしたけど、私にとっては、次に進むためには絶対に必要なことでした。私は、自分と向き合って決断をしたことであれば必ずいい方向に向かうと信じています。環境を変えた分、苦しい時期もありましたが、その反動を受け入れることで私自身が変わっていったし、彼も変化していきました。今は、私にとって彼は誰よりも家族の大切なひとりであり、一番の理解者だと思っています。このいい関係を続けていきたいですね。」
Profile
安達麻美子
1978年生まれ。新潟出身。19歳で結婚し、イタリアに夫婦で渡伊。25歳で帰国と同時に離婚。6年住んで培ったイタリア語を活かした仕事をしたいと、26歳でイタリアのファッション関連の輸入代理店を起業。現在のキャリアとなる。