キャリアチェンジや妊活。伝えていくを積み上げていく 藤井そのこ
ことなるわたしたち
連載「ことなるわたしたち」のインタビューシリーズとして始まった「ことなるわたしの物語」。ひとりの⼥性のリアルな声や暮らしをお届けする15⼈⽬のゲストは、ライターの藤井そのこさん。19歳から付き合いを始めた男性と26歳で結婚。37歳で出産をし、現在は3歳の息⼦を持つ⼀児の⺟である。⻑い不妊治療を迎えた時期もあったが、結婚⽣活において夫婦の危機を⼀度も迎えたことはない。
今回は、シーズン特集の“「伝える」がほどけていく”に紐付け、⼆⼈のコミュニケーションについて伺った。そのこさんの転機は、30歳を⽬前に、会社員を辞め、フリーランスに転⾝したこと。アパレル業界から出版業界の世界へ。キャリアの転機や妊活において、夫へどう伝えていったのか。そのこさんにとって、夫の存在とは?
この20年間、⼆⼈の間にハードルがなかったわけではない
挙式を迎える2011年、そのこさんの⺟親に肺がんが⾒つかり、同時期に8歳から脳腫瘍を患っていた姉が急死する。その後、すぐに3.11 東北地方太平洋沖地震が起こった。福島県いわき市出⾝のそのこさんの実家は災害を⼤きく受けたエリアではなかったものの、⽣活においては⼤きなショックを受けていた。1ヶ月後に迫った挙式をすることさえ迷っていた時期、⺟の⾔葉があり、夫となる彼の後押しによって、式を挙げることにした。

「夫は私のいろんな気持ちの過程を知ってくれている⼈だと思っています。当時、迷っていた私に、⺟は、“あなたにはあなたの⽣活があるから”と、挙式することを肯定してくれました。夫も、⾃分たちには⾃分たちの暮らしがあるっていうことを、割り切って考えてくれたので、私の肩の荷が降りたというか。確かに悲しい思いはあったんですけど、暮らしていくこと、⽣活って続くじゃないですか。悲しい思いをなくすのではなく、抱えたまま⽣きていく⽅が普通だと思うし。震災の頃のあのムードの中、“何おめでたいことしちゃってんの?”と軽蔑の眼差しもあったかもしれない。でも、“私たちは私たち”って、割り切ることができたというか。その頃から、“私は私”ではなく、“私たちは私たち”という単位が変わったような気がします。7年間、恋⼈同⼠ではありましたが、夫が私にとって、家族になったと⾃覚したのはここからでした」
結婚して4年⽬、正社員として勤務していた会社を辞め、30歳を⽬前に、憧れていた出版業の道へと進むことができたのも夫の後押しがあったおかげだという。
30歳、突然のフリーランスへの転⾝

「30歳になって、購読していた雑誌『VERY』のフリーライターの応募を⾒つけて。会社員から、なんの保証もないフリーランスの世界に⾶び込んでみようって思ったんです。夫は“とりあえず 、応募してみて、受かってから考えればいい”って背中を押してくれました。夫は⼤学時代に、私の就職活動が希望通りにいかなかったこと、アパレル企業で働きながら、編集者・ライターの講座にも出ていたことを知っていたので」
そのこさんがライターとして編集部で修⾏できることが決まると、未経験者である⽴場から、これまでの“働く”ライフサイクルが⼀変した。
「フリーランスは働かなければ対価が支払われないので、早く仕事を覚えたかったんです。当時、
私は⼦どもがいなかったので、とにかく“時間”はありました。どんな⼩さなことでもやると決めて、朝から晩までがむしゃらに仕事をし、吸収していきました。振り返ると、⾃分のために費やせた⼤事な1年間だったと思います」

いろんな気持ちの過程を夫が知っているからこそ
働き出して2年⽬で、努⼒の甲斐もあって、企画を任せてもらえるようになったというそのこさん。時に徹夜して、失敗して。睡眠不⾜の⽇々、落ち込む⽇が続いて体調を崩すことも。それでも、⾃分でやりたかった仕事をやっているという充実感の⽅が勝り、そのこさんはさらに経験と実績を積み重ねていった。
4年⽬になり、フリーランスのライターとして軌道に乗り始めた頃、そのこさんは、前触れもなく、夫に妊活の打診をする。

「その頃のことを、実は私、全く覚えていなくて。あとから夫に聞いてみたんですけど、急に病院⾏ってくるって⾔い出したみたいなんです。元々、私は多嚢胞性卵巣症候群という疾患があって、婦⼈科への通院は定期的にしていました。⽣理不順だったので、妊娠はしづらいだろうな、とも多少は思っていました。30代半ばに差し掛かり、担当医に本気で妊娠したいと相談すると、不妊治療の専⾨クリニックを勧められたので、病院を探し始めて。私の場合、タイミングも体内受精もあまり意味がないかもしれないと診断されて、最初から体外受精に踏み切った⽅ができやすいとも⾔われました。実は、それに内⼼安⼼してしまっている⾃分もどこかにいたんです」
家族の絆が強いほどに、夫婦間で⾔い出せないこともある

恋⼈同⼠のような夫婦⽣活ではなくなった今、体外受精に即踏み切れることの⽅が精神的な負担が少ない、という考えに共感する⼈もいるのではないだろうか。そのこさんは、すぐに治療に専念していくことにした。
「⾼度⽣殖医療に踏み切るならなるべく早く、経済的負担も少なく、効率的に。始めるからには、もう確実なものにしたいっていう割り切りもあって。夫もそれに同意してくれました。結婚して7年が経っていて、私が初めて⼦どもが欲しいって⾔い出しましたが、夫は私が⼦どもを作りたいタイプだとは全く思っていなかったんです。その突然の申し出にも、特に驚いた感じはなく、すぐに治療に協⼒するって⾔ってくれました。その時に話したのは、二人でも楽しくやっていけると思うけど、子どもがいる人生もまだ諦めなくていいのかもしれないね、ということ。まずはできることからやってみようと約束しました。そうやって、夫はいつも、聞く⽿を持ってくれる。私が夫に対して何か⾔いたいことを躊躇したり、溜め込むってことがないんです。なので、不妊治療に進むのも⼤きな夫婦のハードルはありませんでした」
しかし、不妊治療期間は想像を超えていった。3年半という⻑い年⽉を経て、36歳でようやく授かった第⼀⼦だった。
想像以上に⻑かった妊活。吹っ切る気持ちで不妊治療と向き合う

「2回⽬の流産の時に、不育症ということがわかったんです。流産が続いて、すごく怖かったけど、原因をとにかく知りたいと思って。ネットで情報を⾒つけてきては、担当医に相談して。そういうことをする患者のことを嫌がる医師もいるでしょうけど、私は⾃分のことだし、お⾦も払っているし、積み上げてきたものを無駄にしたくはなかった。不育症の検査はセカンドオピニオンもしました。出⼝のないトンネル、渦中にいる時は本当にそう思いました。進んでいないということが本当に怖かったし、流産の原因は⼀つじゃないかもしれないという不安もあったけど、不育症が⾒つかったのであれば、それを検査して、処⽅を考えて欲しいって思いました。不妊治療はそういう吹っ切る気持ちが⼤事。ようやく3回⽬の妊娠で、出産することができたんです」
家族が⼀⼈増え、三⼈の⽣活が始まったその⼦さん。産前に⽐べれば仕事のボリュームは減ったものの、夫と⼆⼈で⼦育てに奮闘している。

夫婦の役割を、量で計ることはできないから
夫からの⼦育ての協⼒に、なんの不満もなく、感謝さえしているというそのこさん夫婦において、⼦育てのパワーバランスについて、⼆⼈の価値観が今は同じ⽅向を向いているという。

「夫にはなんでもすぐに相談します。でも、相談している時点で、私の中ではすでに決断していることも多くて。そういう私の部分も夫は理解しているんだと思います。そうやってコミュニケーションをしているつもりでも、家事や育児を私ばかりがやっていると、苛⽴ちをぶつけることもありました。その時夫は、⼦育ての中の親としての役割を明確に数字で半分にすることは違うんじゃないか、と伝えてきたんです。確かに、全く同じ毎⽇が続くことはないですし、そもそもありえないじゃないですか。夫がこれやって、妻がこれやって、量で測り始めたら、ずれた時にうまくいかなくなる。なんていうか、夫婦を、役割の量で計ることはできないことに気づかされました。そうやって、⼩さなことでも、お互いの意⾒を溜め込まずにその場で伝え合うことが良好な関係が持続している理由なのかもしれないですね」
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Profile
藤井そのこ
1984年⽣まれ。⼀児の⺟。「VERY」や企業のオウンドメディアなどを中⼼に、インタビュー、インテリアや料理など暮らしにまつわる取材などを執筆。⽗から俵万智の歌集を贈られたことを機に短歌にハマる。⽇々Instagramストーリーズで短歌を投稿。