公園で縄跳びをして、文化人類学について知る朝 haru.×磯野真穂【前編】
月曜、朝のさかだち
『月曜、朝のさかだち』は今回からシーズン2がスタートしました!これまでと変わらずあらゆる分野のエキスパートや、表現者をゲストに招き、朝活を通して心と身体をほぐし、ゲストのお話を深掘りしていきます。この番組を通して皆さんの日々に豊かな種を撒いていきたいと思っているので、引き続き楽しみにしていてくださいね!
シーズン2最初のゲストは、文化人類学者の磯野真穂さんをお迎えしています。朝の公園で、磯野さんが習っているボクシングのトレーニングでやり始めたという縄跳びをしました。この日はあいにくの雨……と思いきや、公園に着くと晴れ間が差し、気持ちよく朝活がスタート。それぞれ縄跳びを持つと、小さい頃にやったいろんな技を思い出しながら跳び始めました。「前跳び」「後ろ跳び」「二重跳び」「はやぶさ」……。お互いの跳び方を見ながら「磯野さんは早くてプロっぽい!」「haru.さんは二重跳びをしているのに、なぜかゆっくりに見える」など感想を言い合いながら跳び続けていました。「小さい頃は縄跳び検定ってあったよね。技をできるようになるとスタンプがもらえるやつ」と、昔は跳びまくっていたはずなのに、意外と大人になってからやるとすぐに疲れてしまう…。
そんな身体の変化を感じながら、それぞれの縄を結び大縄に挑戦。「入るタイミングって覚えているっけ…?」と不安になりながらも、身体は覚えているものですね。
縄跳びを楽しんだ2人は、磯野さんが文化人類学と出会うまでのお話や、そもそも文化人類学とはどういった学問なのか、研究テーマにしている「身体と社会の繋がり」についてたくさんお話しいただきました。
磯野真穂 さんに聞きたいコト
視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
Q.「なわとびをする朝」はいかがでしたか?
A.普段は室内で夕方にすることが多いので、朝の屋外での縄跳びは新鮮でした。haru.さんのふんわり舞うような連続二重跳びがいまだに目に焼きついています。
Q.理想の1日の過ごし方は?
A.朝5時に起き、猫にご飯をあげた後に20分ほど走りに行く。その後、シャワーを浴び、コーヒーをゆっくり淹れ、それを飲みながら、本の執筆。2時間ほど書いた後に、朝食をとってから、ちょっと難しい人類学の理論書を読む。その後、朝の日差しを浴びながらいつもより長めに歩いて、大学の研究室へ。 そんなふうに1日をはじめられたことは、ない。
Q.文化人類学についてもっと知りたい人におすすめの本やコンテンツはありますか?
A.人類学のコモンセンス: 文化人類学入門
このPodcast
人類学は、世界をおもしろくする一つのツール
haru._私は元々磯野さんが書かれた本を読んでいて、密かに追いかけていた方なので、今日は少し緊張しています。文化人類学って度々耳にはするんですけど、そもそもどんな学問なのかを今日は聞いていきたいです。
磯野真穂(以下:磯野)_高校時代に私は空手をやっていたんです。長野県出身なんですけど、当時長野県は空手が結構強かったんですよ。私がいた地区には世界チャンピオンがいたりと、空手が活発で。私はそんなに上手ではなかったんですけど、強い選手が怪我をして良いパフォーマンスを出せない状況を見たときに、怪我の予防や、トレーニングのサポートをしてみたいと思い、早稲田大学のスポーツ科学科に進学しました。ですが、残念ながら当時はアスレチックトレーナーのクラスがほとんどなくて、結局運動生理学を勉強したんです。生理学って、走った後の血液の成分はどう変化したのかとか、走ったときに二酸化炭素を吐く量と、酸素を吸い込む量がどのくらいの割合だったかっていう実験をやったりするんですけど、自然科学ってやればやるほど人間を数字やデータで理解しようとするんですよ。
例えば筋トレの勉強をしていたつもりが、筋肉の名前の話になり、筋繊維の話になり、筋膜の話になって、さらにはアミノ酸の話になっていったりする。そうやって細分化していくと、もうスポーツをやっている人間の話じゃなくなっていくんです。人間ってこういうふうに細分化して数字で理解できるんだろうかって学びながら感じていて。そんなときに、アメリカに留学をしていたんですけど、たまたま潜った授業が文化人類学で。その授業がいまだに思い出せるくらい、雷に打たれたような衝撃でおもしろかったんです。この学問が、私が自然科学に抱いている違和感を解消してくれるんじゃないかと思って、後先考えずに23歳のときに専攻を変えたんです。
haru._そんなすぐに変えられたんですね。
磯野_アメリカってすぐに変えられるんですよ。専攻を変えようと思って、人類学の先生に会いに行った3日後には専攻を変えられていたので(笑)。日本って専攻を変えるの難しいですよね。これも実は人類学のトピックですよね。人類学って人間の多様性を扱う学問なので、「なぜ日本では学部を変えることがこんなに大変なのか」っていうのも人類学の一つのトピックとして立つのかなと思います。
haru._磯野さんの書かれた本は、私たちのなかで当たり前とされていたことに対して問いかけをしていて、自分のなかにあった当たり前が揺らぐんです。人類学っていうのは、そういう学問という認識であっていますか?
磯野_もともと人類学って定住せずに生活しているような人たちのところにフィールドワークに行って、その人たちの世界観を描き出すっていうところから始まっている学問なんです。でも、いわゆるテレビ番組にあるような、ちょっと不思議な民族がいてすごい!とかじゃなくて、この人たちはこういう世界観で生きてるけど、じゃあ私たちの世界観ってどういうふうにできているんだろうっていうのを問えるのがおもしろいところ。例えば今日朝活で縄跳びをしましたけど、朝活っていつから始まったんだろうとか。朝活っていう言葉は、仕事と遊びが分かれている世界で生きている人たちによって使われていると思うんです。そうなると、狩猟採集民は朝活って呼べることをするんだろうかって考えてみる。そうすると、たぶん概念として成立しないんですよ。きっとかれらの生活は、今から仕事です、今から遊びですみたいに分かれていないと思うので。
じゃあ、朝活みたいなことを成立させる社会構造ってどういうものなんだろうって考えることができる。あと、朝活のときに編集部の方が「小学生の頃にダブルダッチが流行っていた」って言ってたんですけど、なんでこの時期にダブルダッチが流行り出したのかとか、さらに大きく言えば、スポーツがそれぞれの民族でどういう風に捉えられているのかって考える。そうすると日常にあることが問いの対象になってくるんです。私はそんな人類学がおもしろいと思っているので、多くの人に布教したいと思っているし、haru.さんも好きになってくれないかなと思っています。
haru._もう好きになってるんじゃないかっていう気がします(笑)。磯野さんは自分の身近なところから問いを立てることが多いですか?
磯野_そうですね。私が人類学に専攻を変えて一番最初に研究テーマにしたのが摂食障がいだったんです。私自身中学、高校、大学と本当に体重や体型のことが大きな悩みで。摂食障がいまではいかなかったんですけど、90年代に日本でも摂食障がいっていう病気が広く知られるようになっていきました。やっぱり運動生理学ではなく、人類学じゃないとできないアプローチで摂食障がいを研究したいと思って、シンガポールにフィールドワークをしに行きました。それ以降も身体についてはずっと関心がありましたね。最近の私の関心に脱毛があります。最近は老いも若くも、男女みんな脱毛してツルツルになっていくじゃないですか。特にコロナぐらいから男性用の脱毛の広告も出まくって、「脱毛はスキンケアです」みたいなよくわからない感じになってる。
その一方で「ありのままのあなたが素敵」とか言うわけですけど、全然ありのままじゃないじゃんって思っていて。生えてくる毛を無理やり無くしてツルツルにしてる社会で、ありのままのあなたが素敵って矛盾しているじゃないですか。これはどんな現象なんだろうと考えながら街とかを歩いていると、観察の対象がいつもどこかにあるみたいな感じになります。
haru._おもしろいですよね。磯野さんの最新の書籍『コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート』*①は、コロナ禍の私たちの生活を振り返るような本ですよね。
磯野_あの本はもともと朝日新聞デジタルの『Re:Ron』というウェブメディアで2023年の4月から32回にわたって連載されていた記事をまとめたものなんです。コロナ禍って違和感のあることが多くなかったですか?
haru._コロナが流行り出したときに、友達と一緒にインスタライブをしていたんですけど、別の友達に「同じ空間にいるとかありえない」って言われたことがあって。一緒にインスタライブをしていた友達はすごく近所に住んでいる友達で、お互い一人暮らしだったんですけど、そういうことを言われたときはすごくびっくりしました。そこから自分の行動に制限がかかっていって、スーパーに行くのも、行っていいのかな?って不安になったり、すごく窮屈な気持ちになったのを覚えています。
磯野_冷静になって考えれば、そもそも日本に誰も感染者がいない状況だったときは、インスタライブをしても絶対大丈夫じゃないですか。だけど、人類学の観点から見ていて思ったのは、雪崩れ込んでくる情報に対してみんな身体的に反応していたんですよね。頭で理解するっていうよりかは、即興的な反応。例えば顕著だったのが、県をまたいじゃいけないって言われていたじゃないですか。私は長野出身なんですけど、コロナが全国で流行っていたら、別に長野から岐阜に行こうが関係ない。だって「次は岐阜県を狙ってやるぜ」ってウイルスが来るわけじゃないから。だけどみんな身体感覚的に県境は超えちゃいけないんだって突然感じ出した。マスクに関しても同様で、カフェでマスクを外して喋ってるのに、話すことのない移動するときだけつけてるのは変ですよね。みんなおかしいと頭のどこかで感じているけど、それでもやってしまう。
そういう状況を人類学的にどう捉えるべきかと考えました。なぜかというと、コロナ禍の感染対策が社会的に大きな被害を生み出していたと思っていて。例えば失業者が増える、自殺者が増える、若者が対面の機会をどんどん奪われていく。そういう意味で、未来を潰した部分が感染対策にはあったと思うんです。その部分を「あのときは仕方なかった」で終わらせてしまうと、また同じことが起こって未来が潰れていくと思い、人類学の考えを使ってこの本を書きました。
haru._この本の中で「気」ってなんなんだろうっていうことを磯野さんが探っていく章があったんですけど、日本語ってすごく「気」が付く言葉がたくさんありますよね。気のせいとか、気が抜けるとか。この「気」という目に見えないことについて語ろうとすると、一気に「スピってるんだね」って言われたりするんですよ。そのスピリチュアルなものに対して、アレルギーのような反応をされることにいつも疑問を感じています。
磯野_コロナ禍では専門家も総理大臣も「気の緩み」という言葉を使いました。「気の緩みで感染拡大」というわけです。でもおそらく誰もあれを「スピ」とは思っていないわけですよね。私からするとあの時こそ日本はスピったと思う。というのは冗談ですが、人類学の観点から考えると、目に見えない魂とか気の力とか、そういうものを単純にスピってるって言ってバカにしちゃうこと自体が、この世界の見え方を不毛にしてると思うんです。実際にコロナ禍が顕著でしたけど、日本語話者は「気の緩み」っていう言葉の意味がなんとなくわかりますよね。「気」とはある意味スピリチュアルの世界に属するわけですが、それを「スピってる」という風にバカにしてしまうと実際そういう言葉が人をコントロールするために現れたときに、そこで立ち止まって考えることができなくなる。
人類学的に考えると、「気」みたいなものって世界中にたくさんあるんですよ。本にも書いていますが、「マナ」*②っていう世界に漂っている力とか、魂とか精霊とかとともに人類が生きてきた歴史の方がよっぽど長い。日本はいろんなところに神様が宿っているっていう思想を持っている社会でもあるじゃないですか。そこに全面的に傾倒しろとは言わないですけど、それがどういう役割を果たしてきたかを考えることで、私たちの生活が豊かになると思うんです。だけどそれをスピってるってバカにするから、逆に極端におかしなものにハマるんじゃないかなと思います。例えば、何か困ったときに、「この不思議な水を飲んだら治るかもしれない」とか、大金を払ってとんでもない占い師に傾倒しちゃったり。そういう、考えない故の落とし穴っていうのはあるんじゃないかなって気がしています。
haru._説明できない感覚って、私はすごくあると思っていて。例えば私は、この肉体を今1人で持っているけど、自分の後ろにたくさんの先祖みたいな存在がいる気がしていて。だから「後ろがうるさい」みたいな感覚になることがあるんです。そういう感覚も目に見えないものなので、すぐにスピって言われてしまうし、言葉に出せなかったりするなって思っています。どういうふうにそういう感覚について話そうかなっていうのはいつも悩んでいます。
磯野_たぶん、数百年前だったらあるある話だったと思うんですよ。だけど自然科学的な考えが合理的で正しい世界の理解の仕方であるっていう世の中だと、背中に先祖がいる気がするっていう話も、「大丈夫?」って思われるようになっちゃうんですよね。でもかつては自然科学的な考えの方が「大丈夫?」って疑われる時代があったわけで。例えば地球が宇宙の中心じゃないと唱えて、散々非難されたニコラウス・コペルニクス*③とか、宗教裁判にかけられたガリレオとかみたいに。でもかつての誤りが今は正しいことになっています。
加えて、本来科学は「神様とは何か」という部分と切っても切り離せない思考だったはずなのに、それが今では別のもののように語られて、「スピリチュアル」の世界に押し込められ、揶揄の対象になっている。それは、人間が生きてきた長い歴史、悠久の時間っていうものを忘れてしまった世界の捉え方ではないでしょうか。だから、haru.さんの言う先祖がいる感じがするって言うのはすごく好きですし、大事にしてほしいです。
haru._みんなが文化人類学の、物事に対して問いかけをしていくことを大切にしていたら、人それぞれが持っている感覚的な部分に対して理解はできなくても、許容の範囲が広がっていくんじゃないかなって思います。
磯野_人類学では、スピリチュアルという言葉を使ったり、科学的じゃないって言ってバカにしたりするスタンスをまずは保留するんです。私たちってあの人は変とか、病気だとか、これは間違っているとか思ったり、言ったりすることをやりがちだと思うんですけど、人類学の考えには文化相対主義っていう考えがあるんです。この考えでは、基本的に何かに優劣があるわけではなくて、住んでる世界が違うゆえに世界の見え方や世界の作り方が違うんだっていうスタンスを取るんですよ。そうすると、何か異質だと感じるものに出会った時に、拒否をするというより、これはなんなんだろう?って思うようになる。そういう意味でも人類学は、世界をおもしろくする一つのツールなのかなって思っています。
現代社会と「自分らしさ」を人類学から見つめる
haru._磯野さんは長らく摂食障がいについて研究されていたとのことですが、磯野さんの書籍『なぜふつうに食べられないのか』*④と『ダイエット幻想:やせること、愛されること』*⑤を読ませていただきました。私も今思うと高校生の頃に摂食障がいだったなという体験をしていて。その時の身体の状態を客観視できていない状態がずっと続いていたので、この本と出会えたことはすごく大きな出来事だったんです。そもそもダイエットや摂食障がいというテーマに取り組もうと思ったきっかけはどんなことだったんですか?
磯野_もともと運動生理学を通して身体のことを研究していたんですけど、やっぱり生理学だけではわからない身体のことがあるなと気づき始めたんです。それが身体と社会の関係。摂食障がいって、20世紀後半に工業化とか都市化を果たした社会で若い女性に特化して現れるようになったんです。それまではこういう精神疾患ってほとんどなくて、かつ日本を例外とする欧米社会のみにみられていたんです。それまでって、西洋は西洋中心主義があるので、いわゆる欧米で発見された精神疾患っていうのは世界中にある普遍的なものだと思われていたんですけど、例外で日本でも突然現れるようになったんです。社会的な状況を見ていくと、女性の理想の体型がぽっちゃり型から痩せ型に移行するときに出てきているんですよね。あと、女性の社会的な役割が変わってきているタイミングでもあったので、これは社会と身体の繋がりを考えないと理解できない病気だなって思ったんです。それで文化人類学の観点から日本とシンガポールで研究を始めました。
haru._『なぜふつうに食べられないのか』を読んでいると、磯野さんが長い年月をかけていろんな摂食障がいの当事者と対話を続けていくじゃないですか。その研究の仕方っていうのは、テーマによって変わってくるんですか?
磯野_文化人類学がフィールドワークという手法を取るんですけど、具体的なやり方などは研究テーマによって変わっていくので、こうしなくてはいけないというのが決まっているわけではないんです。あの本に関しては、6名の方に約2年半〜4年に渡ってインタビューをしているんですけど、なぜああいうやり方をしたかというと、その前にシンガポールでフィールドワークをしたときは滞在期間が少なくて、20人ぐらいの人に3ヶ月でインタビューをしているんです。なのでお話しする機会も、1人につき2回くらいで。そのときに、1回や2回ではその人のことなんて分からないよなと思ったんです。その状態で、「この人はこういう人で〜」って書くのは、まとめることはできても、本当に理解できてるわけじゃないよなという疑問がずっとあって。だからこそ、少ない人数で長い時間をかけてお話を聞かせてもらうというやり方を取りました。4年間聞いてその人のことがわかったのかって言われたら、今でも分からないです。ただ、なぜふつうに食べられないのかというテーマに対するアプローチとしてはこれまでにない方法を取っているのかなと思っているし、だからこそたくさんの人に読んでいただけているのかなと思っています。
haru._まさにそれが自分に響いた理由なんだと思います。
磯野_どのへんが響きましたか?
haru._私は自分のことをずっと客観的に見れなかったので、長い時間の経過があることで、その時を振り返る視点を色々持てた気がします。自分のなかではそのときの状況から脱しているつもりではあるけど、その食べるっていう行為が未だに好きになれていないことにもこの本を読んで気づきました。食に対しての意識のなかにまだあのとき普通に食べられなかった体験が残っているのかなって。完全になくなってはいないなっていうふうに理解しました。
磯野_あの本が他の摂食障がいに関する本と何が違うかというと、まず摂食障がいを病気として捉えていないんです。それは病気として捉えるなという意味ではなくて、どちらかというと、普通に食べられない人にとって、食べ物がどう見えていて、どう感じられているのかっていうところに注目をしている本なんです。摂食障がいに関する多くの研究書って、基本的に摂食障がいは問題であるというところから入っているんですよ。この人は普通の人と違って問題があるから、その問題を取り払うにはどうするべきかっていうアプローチを紹介している本が多くて。でも私は医者でもないので、そのアプローチは一切せず、そもそもこの人たちにとって食べることはどういうことなんだろうっていうのを見つめ直すことで、私たち人間にとって食べるというのはどういう行為なのかっていうのを照らし返すということをしているんです。なので、haru.さんが言ってくれたように、当事者から「自分のことが書いてあるような本だった」と言ってもらえることがとても多いですね。
haru._さっき紹介した『ダイエット幻想:やせること、愛されること』ではまた違う形を取られていますよね。
磯野_『ダイエット幻想』では摂食障がいよりも少し射程を広げて、自分の身体が嫌いで困っているとか、いつも痩せたいと思っていて、頭から離れない人っていうのを念頭に書いてます。なので摂食障がいに限ってないんです。
haru._自分らしさが今社会の中で価値あることとして広告でもすごく謳われていたりするけど、その自分らしさを見つけられないことが悩みとしてみんなのなかにあるじゃないですか。自分らしさって何かわからないけど、それがないと注目もされないし、価値もない存在なんだっていう考え方がかなり多いと思っていて。
磯野_たぶんharu.さんの世代では「自分らしくなることが素晴らしい」とか「あなたの個性はなんですか?」っていう言葉が溢れていたと思うんです。新聞のデータで調べたんですけど、自分らしさっていう言葉が新聞に突如増え出す時期があって、それが1990年代なんです。それ以降に生まれている人たちは、自分らしさだらけの世界で生まれてるんですよ。
実は1990年以前で朝日新聞と読売新聞では自分らしさっていう言葉はほとんど出てこないんです。1年間に83回とかだったのが、今じゃ1年間に7000回も出てくるんですよ。それぐらい全ての価値が自分らしさであって、他に何もない。そんな言葉をたくさん言われているなかで、自分らしさに漂流する人がすごく増えてるんじゃないかなって思うんです。摂食障がいについての研究をやっていても思ったんですけど、結局最後は「自分って何?」「自分はどうやって生きていったらいいの?」っていう自分に関する悩みが身体に出てきてしまう。その時に、haru.さんの世代って「比較するな」って言われながらも、めちゃくちゃ比較のなかにいるんですよね。だってSNSがあって、開いたら朝から晩まで比較ですから。瞬時に数字になって出てくる状況で、それを気にするなって方が無理でしょ。
haru._広告の仕事をする際にも、自分らしさを謳う広告だからパーソナリティーを含めてキャストを提案しても、全然文脈とは関係ないSNSのフォロワー数でキャストが選ばれたりすることもあります。
磯野_そうですよね。単純に自分らしさを賛美したり、「あなたはあなたのままでいいんだよ」って言うんじゃなくて、そもそも自分っていう存在は他人から照らし返されることで見えてくるもの。そのうえでいわゆる競争に陥らない自分らしさっていうものがあるとしたら、それはどういうものだろうっていうところまで書こうとしたのがこの『ダイエット幻想』という本なんです。
haru._よく私たちは単体のかけがえのない人であるっていう言われ方をするじゃないですか。
磯野_そういうことをすごく言われてきた世代だなと思います。ある意味では素晴らしいことでもあって、それまでは男だからこうしろ、女だからこうしろ、この地域に生まれたからこうみたいな、属性に基づいてこういうふうに生きていけっていう縛りがあまりにも強すぎたと思うんです。その結果、そういった考えへの抵抗として「自分らしさ」っていう言葉が出てきているんですよね。なのである意味いい面もあったんだけど、私たちって社会のなかで、ある種共同体のなかで生きているので、それぞれの役割みたいなものもあるわけじゃないですか。でも「そんなものは全部くだらない。重要なのはかけがえのないあなたです」みたいになってくると、そもそも寄って立つところがなくなるんです。その結果何に立つかっていうと、SNSの数字みたいなものなんですよね。
その一方であなたはあなたで素晴らしいみたいに言われることって、大きな矛盾のなかに投げ込まれてしまっている個人があるということだと思うんです。そのうえでなお、自分らしさがあるとするならどういうものだろうっていう問いたてをしないと、ずっと自分探しをし続けて、永遠に見つからないみたいなことになりかねないと思うんです。そういう意味でも、自分らしさの危険性みたいなものも『ダイエット幻想』では言っておきたかったですね。
haru._これはちくまプリマー新書から出版されているので、割と若い人が手にしやすいですよね。
磯野_中高生でも読めるっていうのが、ちくまプリマー新書の売りなので。ただこの本はおもしろくて、意外と私よりも上の50代の男性とかも読んで感想を送ってくれる方もいて、思ったよりも射程が広い本になっていますね。
haru._でも自分らしさや承認欲求の問題って、私たちの世代だけじゃなくて本当に幅広い世代が抱えていることなんだなっていうのは思います。
磯野_私は目の前でバブルがはじけちゃった世代で、それまでは普通に就職して結婚して家を建てて、年金で暮らすっていうある種のライフコースがあったと思うんです。それに乗っかればみんな生きていけるし、特に困ったこともなかった。でもそれが概念的に否定されたり、実質的に無理になったりするなかで、みんな空中に投げ出されて、どうやって生きていったらいいの?っていう状況にあるんだと思います。 この本って、『ダイエット幻想』っていうタイトルをつけたのに、あまりダイエットの話をしてなかったんです。「可愛いとはなんだ」とか「糖質制限の話」とか「自分らしさとはなんだ」とかそういう話になってしまって、違うタイトルの方がいいんですかね(笑)?
haru._でもこのダイエットっていうテーマの取り扱いに関して、タイムリミットみたいなものを感じていたっていうふうに書かれていたと思うんですけど、それは磯野さんにとってはどういうことだったんですか?
磯野_体重のことって高校生や大学生の私にとって大きな悩みだったんですけど、40代になってくるとその実感が薄れてくるのを感じていて。やっぱり今の問題としては「老い」になってくるんですよ。白髪がめちゃくちゃ増えてきたとか、親の介護とか、そういう話に私のシフトもズレていっていて。そうなると、「10代や20代の私の悩みって、今の私の悩みに比べると陳腐なものだよね」とか「そんなに大した悩みじゃないよ」とか言いそうになるんじゃないかと思っていて。でも当時の私はそういうことを大人から言われるのがすごく嫌だったんですよ。ただ、歳をとると悩みの内容は変わってくるんですよね。その悩みの方が重要だみたいに思いたくなるけど、それは嫌だなと思い、この悩みの質感が失われないうちに書きたいっていうのを思っていました。
あとは、私より一回り下の世代の人たちに、私のあのときの悩みは共有できるのか、あるいは全然異質のものになってしまっているのかっていうのを、本を出すことで問うてみたいとも思っていました。私にとっては世代が変わっても、身体についてやジェンダーについての悩みっていうのは普遍的な部分もあるだろうと思っていたので、そこに自分の力で届くのかっていうのを試したくて、試すなら今だなっていうのが明確にありました。
haru._私は当時なんであれだけ毎日カロリー計算をしてたのかとか、そこに対する実感はかなり薄れています。私が摂食障がいになりかけたときの話を大学生の時に一度テキストに書いて公表したことがあるんです。それを読み返すと、やっぱり今とは緊急性が全然違っているなと思います。いつそのトピックを自分が取り扱うのかということは、初めて私のなかで沸き起こった問いでした。
磯野_haru.さんと同じような時期に同じ悩みを抱えていた女性ってたぶんたくさんいると思うんです。日本って特に女性の痩せすぎが顕著すぎる。痩せてるという基準が厳しすぎるんですよ。だから普通ぐらいで太ってるとか、ぽっちゃりになっちゃうぐらい痩せすぎが進行している。特に女性は第二次成長期を迎えると、絶対に体重って増えるじゃないですか。その時期が一番プレッシャーになるんですよね。太っちゃいけない、可愛くなきゃいけないっていうプレッシャーがきて、恋愛の悩みがあったりですごく複雑なものに女性の身体が絡み取られていってしまう。
そのなかで、カロリーだけを計算したりして、悩みから抜けられなくなっちゃうことがあると思うんです。haru.さんも何度も言っているけど、客観視して見るための一つのツールとして学問というのはかなり力があるものだと思うので、そういうふうに読んでいただけたのは書き手としてもすごく嬉しいですね。
haru._本当に高校生のときの自分に渡してあげたいです。
対談記事は後編に続きます。後編では、磯野さんと哲学者の宮野真生子さんによる書籍『急に具合が悪くなる』についてや、多くの人と多くの時間をかけて対話を続ける磯野さんが考える「上手な話の聞き方」についてお話しいただきました。2人の対談はPodcastでも配信中ですので、あわせて楽しんでみてください。
それでは今週も、行ってらっしゃい。
対談記事は後編に続きます。後編では、磯野さんと哲学者の宮野真生子さんによる書籍『急に具合が悪くなる』についてや、多くの人と多くの時間をかけて対話を続ける磯野さんが考える「上手な話の聞き方」についてお話しいただきました。2人の対談はPodcastでも配信中ですので、あわせて楽しんでみてください。
Profile
磯野真穂
長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、トレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するが自然科学のアプローチに違和感を覚え、文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て4年間在野の人類学者として活動。2024年より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。一般社団法人De-Silo理事。応用人類学研究所・ANTHRO所長。単著に『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界―「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想―やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、『他者と生きる―リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、『コロナ禍と出会い直す―不要不急の人類学ノート』(柏書房)、共著に『急に具合が悪くなる』(宮野真生子との共著)がある。