公園で縄跳びをして、文化人類学について知る朝 haru.×磯野真穂【後編】
月曜、朝のさかだち
『月曜、朝のさかだち』シーズン2初回のゲストは、文化人類学者の磯野真穂さんをお迎えし、文化人類学の魅力についてたっぷりとお話しいただいています。記事の前編では、磯野さんが文化人類学を学ぶまでの経緯や、そもそも文化人類学とはどういった学問なのか、磯野さんの書籍『コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート』、『なぜふつうに食べられないのか』、『ダイエット幻想:やせること、愛されること』についてお話しいただきました。まだ読んでいない方は、ぜひそちらも読んでみてくださいね。
後編では哲学者の宮野真生子さんとの書籍『急に具合が悪くなる』について、執筆を通して感じた様々なこと、そして多くの人と多くの時間をかけて対話を続ける磯野さんが考える「上手な話の聞き方」についてお話しいただきました。
本編へ進む前に、まずは視聴者さん、読者さんから集めた「ゲストに聞いてみたいこと」にお答えいただきました。今後も『月曜、朝のさかだち』に遊びに来てくれるゲストのみなさんに聞いてみたいことを募集しているので、ぜひORBIS ISのSNSをチェックしてみてくださいね!
磯野真穂 さんに聞きたいコト
Q.職業病だと感じる瞬間はどんな時ですか?
A.相手の振る舞いとか、言葉の使い方とかを、ふと気づくと観察して、その人がどういう世界観の中で暮らしているのかを想像してしまっている時。
Q.最近気になるトピックやキーワードがあれば教えてください
A.自分らしさ、美容整形の若年化、日常会話の中に医療の言葉がどんどん入り込んでいること
「大事な死者は過去ではなく、未来にいる」
haru._今回は、私が衝撃の読書体験をした晶文社から2019年に出版された磯野さんの書籍『急に具合が悪くなる』*①についてお話ししていただけたらと思っています。まずはこの本のご紹介をしていただいてもよろしいですか?
磯野真穂(以下:磯野)_この本は出会ったばかりの哲学者と人類学者による20通の往復書簡で構成された本なんですけど、宮野真生子*②さんが私と出会ったときには既にがんの転移を経験されていたんです。そのすぐ後に宮野さんはもう治療法がないと言われていて、急に具合が悪くなる可能性がある、ホスピスを探し始めた方がいいとお医者さんに言われます。ただ書簡を始めた2019年4月は、数値としてはかなり悪いけど、体に症状は出ていない状況でした。でも書簡を始めて1ヶ月もたたないうちに宮野さんの具合がガタガタっと悪くなっていったんです。そしてこの本の「はじめに」を書いた2019年7月6日の深夜に救急搬送されてそのままICUに運ばれ、退院することなく2019年の7月22日に亡くなりました。その後この本が2019年9月25日に出ることとなります。
haru._その「はじめに」の最後に、「皆さんに見える景色が、その先の始まりに充ちた世界の広がりになっていることを祈っています」と綴られているんです。こんなにも死が近くにある状態のときに、読み手の世界が広がっていくことを祈れるということの凄みを感じました。私はこの本を読んでいて、最後に向かっていくにつれて身体が震えてしまったんです。急に具合が悪くなる可能性を持った宮野さんと磯野さんの往復書簡で、最後「生」に向かっていく感覚が、ちょっと言葉にできないんですけど……。
磯野_宮野さん自身、「偶然」をテーマにしていた九鬼修造*③の研究をずっとしていたんですけど、偶然というのを語るうえで非常に重要なのが「出会い」なんです。厳密に言うと、私たちは日々いろんなものに出会っているけど、いちいち「今日は練馬ナンバーの車に出会った」なんて言わないじゃないですか。出会いっていうのは、自分になんらかの驚きを与えたり、自分の行く先を変えてくれるような何かに遭遇したときに、私たちは「出会った」と言うわけですよね。先ほど紹介してくれた「はじめに」の文章で「始まりに満ちていることを祈っています」と書いているんですけど、「始める」じゃなくて「始まり」なんですよね。始まりっていうのは、作ろうと思っても作れない。始まってしまうものだからこそ、その先に何があるかはわからないけど、始まってしまった先に何があるのかということをすごく大事にされていた方なんです。だからこそ「始まりに満ちていることを祈っています」という、彼女の哲学の真髄が込められた言葉を一番最後に彼女は「はじめに」で残したんですよね。
haru._この本が出版されてから数年が経っていると思うのですが、磯野さんはこの本を読み返して、当時のやりとりが今の磯野さんのなかで発展することってありますか?
磯野_読み返して気づくところもあるんですけど、私としては自分が発信している言葉が何かを裏切っていないかどうかっていうところに立ち戻るための本になっています。私はコロナ禍で感じた違和感を当時結構発信していたんです。緊急事態宣言の直前に受けたインタビューでは、当時の世の中の空気に異議を唱えたのですが、そもそもそのインタビュー自体を受けるかをかなり迷いました。緊急事態宣言を出せっていう大号令が社会に溢れているなかで、国民が政府に対して自らの自由を制限することを要求すること、つまり緊急事態宣言を要求することはおかしいのではないか。今であれば同意する人が多いでしょうけど、当時は批判されるのは目に見えていたので。でも、もし私がここで批判が嫌だからという理由で逃げたら、宮野さんと交わした言葉を裏切ることになり、それは自分の中の重要なものを自分で殺してしまうだろう。そういうふうに考えていました。自分自身の言葉が誠実かどうかを確かめるために、立ち戻る場所が宮野さんとの書簡になっていますね。
それと、さっきharu.さんが「衝撃的な読書体験で、震えが止まらなかった」って言ってくださったけど、やっぱり学者として、自分の言葉が100年残ったら、それは学者としてやるべきことができたんじゃないかって思うんですよ。自分よりも一回り若い世代の方がそういう読書体験をしてくださったっていうのは、私が死んだ後にもこの本が更に生きていく可能性も持っているということ。宮野さんにも今のharu.さんの言葉を報告したいなって思っています。
haru._宮野さんが「最後に責任を取れずに投げ出されたものが、生者と死を繋いでいくのではないか」と問いかけをされているお手紙に対して、磯野さんが割と強く反発というか、 「あなたの文責を私が引き続くことなんてできないので」というふうな言葉を投げかけていますよね。
磯野_もっと乱暴な言葉で言ってますけどね(笑)。
haru._そうですね(笑)。それにすごくびっくりしちゃって。本の中でも、こんなことを死に近づいている人に言っていいのかっていうことを磯野さん自身も書かれていたと思うんですけど、そのやり取りを読んで、ここまで人って人に対峙できるんだっていう可能性を感じて衝撃を受けました。
磯野_今の社会って、「無理しないでいいよ」みたいなとか優しさが勝つ世界じゃないですか。でもそれって一見優しそうに見えて、実は冷たいんじゃないかと思う時があります。優しい言葉をかけておけば、その場は丸く収まるし、批判されることもない。でもその言葉が、その人が本当に願って望んでいるものを無視していることもあるんじゃないか。そう思う時もあります。私と宮野さんはこの書簡以外でもLINEとかで膨大な言葉のやり取りをしているので、ここで宮野さんが書簡を諦めて他の誰かに引き継ぐっていうのは、宮野真生子が本当にやりたい、望んでることじゃないんじゃないだろうって思ったんです。
これは私がスポーツをやってきたせいもあるのかもしれないんですけど、人間って応援されると思った以上に力が出るということが普通にある。一緒にやってるんだからこそ、ここは私がちゃんと背中を押してあげる役割なんだろうっていうのもありました。とはいえ、この7便目を書いたときは、もう終わるのかもしれないって思って寝られなかったことも事実です。
haru._死にとても近いところにいるのに、スピードを持った言葉をかけてもいいんだって思いました。
磯野_偶然とか出会いとか、そういうことを大事にしている宮野さんだからこそ、あえてどうなるか分からない言葉をかけてみて、その先の始まりに賭けることができたのかな。実際7便目は私と宮野さんの関係が一歩深まったところではありましたね。
haru._9便のタイトルが「世界を抜けてラインを描け」だと思うんですけど、これは記事の前編で紹介した『ダイエット幻想:やせること、愛されること』*④の最終章と同じタイトルですよね。
磯野_実はこの本は『ダイエット幻想』と同じタイミングで書いていたので、あえて同じにしました。『ダイエット幻想』を書き切った後は、宮野さんとの書簡に全てをかけようという気持ちで書いたというのもあって、被せました。
haru._ここで、「自分の存在を点ではなく、ラインで捉えてみよう」というふうに書かれていたと思うんですけど、このお話をちょっとしていただきたいです。
磯野_特に今の「自分らしさ」って、なんだかんだ言って自分が人よりも優れている点が自分らしさであるという思考になりがちだと思うんです。だけどラインを描くという見方をすることで、「実は自分っていうのは他者との関わりの中で生まれている存在であって、実は自分の命というのは今まで出会ってきた人たちの多様な命の軌跡のなかに自分の生き方がある」と思える。そう思うことで、他人と比較して優れているところが自分らしさという考えから抜けられるのかなっていう発想をここに込めています。
それと、宮野さんと私の書簡のやりとりがまさにラインでした。宮野さんから発せられる言葉を私が引き受けて、もう一回返してやりとりをするなかで、関係性がラインを描いているっていう実感がすごくあって、それがあって生まれた言葉です。だからこそ、自分について悩んでいる人は、自分だけを見るんじゃなくて、自分にとって大切な人って何をしてくれたんだろうっていうのを探すことで初めて自分らしさっていうものが見えてくることもあるのかなという意味も込めています。
haru._それが宮野さんが亡くなったあとも磯野さんがこれから一歩何かの道を選ぶときの判断材料になっていますよね。実際に宮野さんの肉体が今この世界からはなくなっていても、すごく生き続けているのかなって思います。その人がいなくなっても、そうやって自分の人生に影響していくんだなと。
磯野_大事な死者って過去じゃなくて、未来にいるんだと思います。だからこそ、自分が行き先に迷ったときに、その死者と対話することで自分の未来の方向性を決めていく。死者はそうやって未来にいて、自分を引っ張ってくれる存在なのではないかと、この書簡を通じて考えています。私が死ぬときに初めて宮野さんに会えるのかもしれない思いますし、学者として何かをやっていくときには常に宮野真生子が一緒にいるなという感覚がありますね。共に踏み跡を刻んでいる関係です。
さりげない言葉に、発見は落ちている
haru._磯野さんはたくさんの方と、ときには長い年月をかけて向き合っていたり、話を聞くということがお仕事のなかで大切な部分を占めていると思うのですが、相手が自分の話をしてもいいというふうに思ってくれたんだなという瞬間ってどんなときに感じますか?また磯野さんが話してもらうためにしているアクションとかってありますか?
磯野_特に意識しているアクションはないんですけど、私はインタビューの授業も担当します。そこではもちろんHowTo的なものも教えますが、その手前で、聞いている人が目の前にいる人に興味を持っているかっていうのが一番大切。意外と、全く興味を持っていない人っています。ずっと自分の話をしている人はその典型。基本他人に関心がないから、質問をしようとも思わない。そういう人がいくらHowTo的な質問をしても広がるわけがありません。
haru._例えばインタビューをする相手を磯野さんが探すときに、その時点でその人についていろいろ調べたりするんですか?
磯野_私がよくないと思う質問の中にショートカット質問があります。私が名付けたものですが、それは、インタビューをするときに、本人に話してもらえばいいやと思って、一切調べずにインタビューを始める。そうすると、すごく浅い質問になるんですよ。今回はharu.さんが私の本をしっかり読んでくださってから質問してくれているので、その分話が深いところに届きますが、ショートカット質問をしちゃうと、聞き手が浅い知識のまま質問を投げるので、返ってくる回答も浅いんですよね。だからある地域に調査に行くときも、その地域がどういう地域で、どういう歴史があって、インタビューする人はどういう人なんだろうっていうのは調べます。ただ同時に、インタビューするときは、意識的にそれを全部捨てるという意識も持ちます。そうしないと、逆に私が得た知識に質問が制約されてしまうので。ただ、それは全く調べないのとは全然意味が違う。
たまに調べると質問がつまんなくなるので、下調べはしませんという人もいますけど、それは言い訳だなと思っています。やっぱり、研究に協力してくださる方に関心を持って、いろいろ調べたうえで意識的に忘れるということができると、一番いい聞き方になるかなと思います。
haru._忘れるのが私は苦手ですね。調べて、「これ聞かなきゃ」ということに割と囚われちゃう。
磯野_インタビューの授業でも、想定質問集にこだわりすぎないほうがいいっていうのはよく言っていますが、難しいのはよくわかります。ただ、こっちが作ったインタビューの流れにこだわると、自分のペースに相手を引き込んでしまう。でも、一番おもしろいインタビューって、相手が自分の流れで話しているときなんですよね。だから、その流れを切らないようにしますし、そういう意味で作った質問を捨てるっていうのはします。
haru._難しいな……(笑)。摂食障がいがある当事者にお話を伺ったりするときって、事前の下調べって実際にどうされていましたか?
磯野_そのときは、どういう経緯でここまで歩んできたのかを教えてくださいっていう簡単なテキストをもらった上でインタビューを進めました。でもさっき予め作った流れを無視することは難しいとおっしゃっていましたけど、アーティストとしての創作活動もそうじゃないですか?おそらく、こういうものができるだろうって思って計画を作っていても、作ってるうちに全然変わっちゃって、そっちの方がよっぽどよかったとかってないですか?
haru._それは常にです(笑)。
磯野_それと同じです。
haru._今日が磯野さんとは初めましてですけど、そういうときは相手がどんなふうに自分と向き合ってくれるかがわからないから、いろんな想像ができるんです。なので型にハマったようなやり取りをしなくて済むんですけど、ずっと仲のいい友達や家族、パートナーと、もう一歩踏み込んだ会話をしたいと思ったときに、どういうふうに話しかけるのがいいのかなって思います。
磯野_私結構やらかし系なんですよね。一歩踏み込んだ質問をしてしまって、相手が引いちゃうっていうことをやりがちで。なのでその質問に地雷を踏んでる私は答えられない感じはするんですけど……。
haru._この番組もシーズン1では、面識がある友人を呼んで改めて相手の話を聞いて、出会い直すというコンセプトだったんです。
磯野_ある種の発見みたいなものって、実はすごくさりげない言葉に落ちていたりするんですよね。そういう言葉を拾ってこれるかどうかっていうのは結構重要。それができると、インタビューされている側が新しく自分自身で気づいたりするんですよね。「そういえばこんなことあった」みたいなことを、話を聞かせてもらっている立場として、ちゃんとホールドできるかがすごく重要かなと思っています。意外と重要な言葉をスルーしちゃうんですよ。そのトレーニングは結構してるかもしれないです。
haru._それはどういうトレーニングなんですか?
磯野_例えば、いろんな理論を勉強していくことで、学問的の基礎体力的なものがつくので、それを身につけていると見つけやすくはなります。それはたぶんアーティストも同じだと思うんですよね。おそらく、ベースとなっているものがたくさんある中で「これやったらおもしろいかも」っていうのが出てくるのではないでしょうか。でも知りたいのは、そういう素養が具体的に何かってことですよね(笑)?
haru._素人の私たちでも実践できたらいいなと。
磯野_例えば今日、朝活で縄跳びをしていたときに、スタッフの皆さんが「過ごしやすいのと、好きは違うよね」っていうお話を皆さんがされていましたよね?
haru._記事を書いてくれている虎鉄さんがとにかく夏が好きで、金木犀の香りが公園でしたときに「嫌ー!」と言っていて。「でも過ごしやすいじゃん」って話をしたら、「過ごしやすいと好きは違うじゃん」っていうシーンですね(笑)。
磯野_そういうところって、その人の世界の見方が多分現れているんです。だからそこを捉えて質問で掘り下げられると面白い。逆にそういうところをスルーしちゃうと、「あなたの人生にとって重要なことを一言で教えてください」みたいなありがちな質問になっちゃうんです。そうすると大体ありきたりな言葉が返ってくる。他方人類学のインタビューの鉄則って、「一番聞きたいことをストレートに聞かない」なんですよ。例えばharu.さんに「アーティストとはなんですか?」と聞いて、その答えをもらって終わりにしてしまう、とか。そう聞いてももちろんいいですけど、それで終わりにせずに、その答えから思いつきで答えた、ありきたりなものである可能性もある。なので、ご質問に戻って答えると、さらっと言った表現みたいなところをちゃんと捕まえて質問として広げていくっていう聞き方をすると、haru.さんのおっしゃるような、その人と出会い直すみたいなところができるのかもしれないですね。
haru._インタビューで行われてる会話じゃないところの節々まで聞かれていたのはびっくりです。
磯野_意外と本質的じゃないところにヒントが詰まっているのかなと。だからharu.さんとお話ししてて思うのは、結構身体感覚に寄り添ったような発言をされる方だと思うんです。多分感覚を言語にする前に感じ取れる方だと思うので、私がharu.さんにインタビューするんだったら、そういう感覚をもっと聞いてみたいなって思います。
haru._私はそうですね。感覚はあるけど、それを言語化するのがものすごく苦手で。
磯野_だからアーティストなんじゃないですか?
haru._そうかもしれないです……(笑)。
磯野_言葉にするとなくなっちゃうことってあるので、逆によくないんですよね。どうしても私は人類学者なので、言語に変えようとしちゃうんですけど、そもそも言語にできないから違う表現をしている人に向かって、言語に変えるっていうのは暴力的でもあるなと思っています。
haru._磯野さんはそれをまとめる作業もされますもんね。
磯野_そうですね。どうしても私は絵が下手なんで。
haru._その人の物語をまとめる作業で気をつけていることとかってありますか?
磯野_その人の話が本になったことで、その人自身に誹謗中傷が及ぶとか、ひどく傷つくことがないようにっていうのをまず心がけています。あと心がけているのは、1人の人の話なんだけど、その後ろに普遍的なものが見えるかどうか。一人ひとりの人生は実は世界を背負っているというところをちゃんと描けるようには心がけています。そうでないと、個人のブログと変わらなくなってしまうので。一人ひとりの人生の後に世界の普遍を見せられるかが人類学の魅力だと思うんです。
Profile
磯野真穂
長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、トレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するが自然科学のアプローチに違和感を覚え、文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て4年間在野の人類学者として活動。2024年より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。一般社団法人De-Silo理事。応用人類学研究所・ANTHRO所長。単著に『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界―「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想―やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、『他者と生きる―リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、『コロナ禍と出会い直す―不要不急の人類学ノート』(柏書房)、共著に『急に具合が悪くなる』(宮野真生子との共著)がある。